木もれ日
音楽室と窓の外のプラタナスの木……。たしかに学校の廊下ですが、かべや廊下の色がちがうのです。そして目の前には、背の高い、若い男の人がいます。先生のようですが、見たこともない人でした。あまりにも意外なことに、未久は足がふるえました。
(ここ、わたしの学校じゃないわ!)
「君、ここの生徒だっけ?」
男の人もやはりびっくりしたようすで、まじまじと未久をみつめています。
「でも、どこかで見たような……何年生?」
「よ、四年です。でも、ここじゃない……」
未久は泣きそうな声でやっと答えると、あわてて音楽室に飛び込みました。
するとそこは見慣れたいつもの音楽室です。
「ああ、びっくりした」
未久はしばらくの間、胸の動機が止まりませんでした。
窓から差し込む夕日が、黄色からだんだんとオレンジ色に変わってきました。
未久はさっきのように違う場所に行ってしまうような気がして、ドアを開けられずにいました。でも、このまま音楽室にいるわけにはいきません。
その時、がちゃっと音がして、ドアが開きました。
「あら、未久さん。まだ帰らなかったの?」
入ってきたのは顧問の先生でした。
「すみません。今帰るところです。うちでは大きな声で歌えないから、つい……」
(よかった。わたしの学校だ……)
未久は内心ほっとしました。
「そう。じゃあ、気をつけて帰ってね」
「はい。さようなら」
夕方の赤い光に包まれた帰り道を歩きながら、未久はさっきの不思議なことを思い出しました。
落ち着いて考えてみると、なんだかわくわくしてきたのです。だって、自分がいつも考えていたことが本当になったのですから。
でも、未久はこのことは自分だけの秘密にして、胸の奥にそっとしまっておきました。
それっきり、不思議なことは起こりませんでしたが、木もれ日の廊下を通るたびに未久は楽しい気分になりました。
それからずいぶん月日が経って、未久は音楽の先生になりました。
ある春の初め、初めて勤めることになった小学校に、あいさつにやってきました。
校長先生との話がすむと、山下という若い男の先生が、校舎の中を案内してくれました。
「ここが音楽室です」
そこで未久ははっとして立ち止まりました。
音楽室は二階の西側の突き当たりで、未久が通っていた小学校と同じ構造です。
しかも、外には大きなプラタナスの木が……。胸がきゅんとなって、未久は思わず目を閉じました。
「どうかしましたか?」
「ここ、わたしが通っていた小学校とそっくりなんです。裏庭のプラタナスの木も……」
「へえ、ぼくは五年生までこの学校にいたんです。この場所がすごく好きでした」
「まあ」
未久は山下先生に親しみを感じました。
「この木の葉が茂ると、木もれ日がきれいなんですよ。すごく幻想的で」
まるで子どものように目をきらきらさせている山下先生を見ているうちに、未久はふと、あの日の少年のことを思い出しました。
「わかります。わたしもそうでした」
「行ってみますか?」
山下先生はプラタナスの木を指さしました。
ふたりは裏庭にでました。
大きなプラタナスの木の前に立ったとき、未久は信じられないものを目にしたのです。
「こ、これは……?」
おどろいてふり向くと、山下先生はちょっと照れくさそうに言いました。
「それ、ぼくが彫ったんです。転校する前の日、知らない女の子といっしょに」
そうです。プラタナスの太い幹には、『希望』という文字がうかんでいるのです。もう古くてうっすらとしかわかりませんが。
(あのときの……!)
未久は涙が出そうになりました。胸がいっぱいになって、言葉がでてきません。
山下先生は、そんな未久のようすには気づかず、梢を見上げながらうれしそうに言います。
「去年、運良くこの学校に勤務することが決まって、真っ先にここにきたんです。そしたら文字が残ってて……」
(わたしです。あのときの女の子は)
未久は心の中でつぶやきながら、山下先生が気づいてくれるのを待ちました。なつかしさとうれしさに胸がドキドキしています。
「あの女の子はどうしてるかなあ。歌が上手で……。名前も聞かずにそれっきり……」
と、向き直った山下先生の顔を、未久は、ふきだしそうな口元をきゅっと閉じて見つめました。
たちまち先生の顔つきが変わりました。まるで不思議なものでも見たように。
「そうだ。二度目は去年の夏、あの廊下で同じ女の子に……。いや、まさか……?」
「うふふ……」
未久は、こらえきれずにとうとう笑い出してしまいました。山下先生は頭をかきながら顔を赤くしています。
春の、若い緑の葉が伸び始めたプラタナスは、不思議な再会に胸をときめかせるふたりを、やさしく見つめていました。