木もれ日
木もれ日
未久は校舎の二階の西側にある、音楽室の前の廊下が好きです。
そこは、裏庭に生えている大きなプラタナスの木が、窓の際いっぱいに枝をのばしているので、日中はぼんやりと暗くなっていました。
けれど、太陽が西に傾き始めると、がらりとようすが変わります。
窓から射し込む木もれ日が、光の水玉模様になって廊下に映り、風がそよぐとゆらゆらゆれて、幻想的な世界になるのです。
ですから未久は、この廊下を『別世界の入り口』と、こっそり呼んでいました。
未久は四年生になると、迷わずコーラス部に入りました。もちろん歌は好きですが、毎日、木もれ日の中を通って音楽室に行けるのがとても楽しみなのです。
五月のある日のことです。秋に開かれる市の音楽コンクールの日程が発表されました。
課題曲の説明と自由曲を選んだ後、独唱の部に出場する生徒を先生が指名しました。各学年からひとりずつ選ばれるのです。
「では、次に独唱の部の出場者をいいますね。六年生は……」
未久は、友だちのゆりに目配せしました。
(きっと、ゆりちゃんよ)
という意味です。ゆりはゆりで自信たっぷりに、にっこりしました。
ところが、
「えーと四年生は未久さんに歌ってもらいます」
と言った先生の言葉に、未久は耳を疑いました。
「ええ?」
驚いてゆりの方を見ると、ゆりは顔をこわばらせています。
他の部員たちも驚いて、
「えー?」
「うそー」
と、口々に言っています。
五、六年生は予想通りでしたが、四年生で一番上手なのは、ゆりだったからです。
(どうしよう。どうしてわたしなのかしら)
未久は不安で胸がいっぱいになりました。
「おめでとう。未久ちゃん。よかったわね」
ゆりの言葉はとげとげしく冷たいものでした。
次の日から、ゆりの態度がよそよそしくなりました。ほかの部員とひそひそ話して、未久が近寄るとさっと離れてしまいます。
未久は思い切って先生に相談しました。
「先生、独唱をゆりちゃんにしてもらえませんか? わたしよりゆりちゃんのほうが上手だし……」
先生は未久の気持をわかってくれましたが、
「この歌はあなたの声の方があってるの。ゆりさんにはちゃんと説明するわ」
と言いました。
ところが、ゆりはこのことを逆恨みして、みんなといっしょにいじわるをするようになったのです。
未久が練習していると、後ろの方から聞こえよがしな声がしました。
「あれでうまいつもりなのよ」
「聞いちゃいられないわね」
「ゆりちゃんならもっと声が伸びるのに」
ゆりはふふんと鼻でわらっていました。
しばらくすると、未久は声がかすれて、うまく歌えなくなってしまいました。
初めて練習を休んだ日の夕方。みんなが帰ったあとで、そっと音楽室前の廊下に行ってみました。
プラタナスの葉陰から差し込む水玉模様の光は、いつもと変わらず未久を包んでくれます。
廊下に映った葉陰と光がくるくるとゆれて、しだいに気持ちがやわらいできました。
風がそよぐと聞こえる、さやさやという葉音が、歌を歌っているような気がします。未久は目を閉じて聞いているうちに、ふと歌ってみたくなりました。
何も考えず、だれのことも気にしないで、心を込めて歌いたいと思ったのです。
♪ゆめはー おおきく……♪
すると、のびのびと声が出ました。
(歌える。声がちゃんと出る!)
なんだか今までよりもずっとうまく歌えたような気がしたのです。
♪白い翼の鳥になって
いつか 青い空へはばたく……♪
ぱちぱちぱち……。拍手の音にふりむくと、見かけない少年が立っていました。
「君、上手だね。すごくきれいな声だ。ぼく、力がわいてきたよ」
未久は照れくさくなって、下を向きました。
「ねえ、はじめから聞かせてくれない?」
「ええ? だめよ。わたし、へただもん」
「そんなことないよ。すごくきれいな声だもん」
どうしてもと少年が言うので、未久は歌いました。
♪自由な心で……
悲しみをこえて……♪
少年は目を閉じて聴いています。歌が終わる頃には、うっすらと涙をうかべていました。
「ありがとう。ぼく、転校するんだ。最後にいい思い出になった」
「ほんと? そう言ってくれてうれしい。わたし、自信なくしてたんだ」
「だいじょうぶだよ。君ならきっと!」
「ありがとう。なんだか元気が出た」
未久が笑うと、少年も笑いました。
「ぼく、ここが好きなんだ。ほら、水玉模様の木もれ日がさ、すごく神秘的っていうか」
「そう。わかる、わかる。なんだか別の世界とつながってるみたいな気がするの」
「別の世界かあ。うん、そうだね」
どうして今まで、こんなに気の合う少年とあえなかったのでしょう。
未久はうれしくて、胸がドキドキしました。しばらくの間、そこで話した後、少年が転校してしまうことが残念でたまらなくなった未久は、窓の外を見て、あることを思いつきました。
「ねえ、裏庭に行こうよ」
未久は急いでランドセルを背負うと、少年の手を引っ張って裏庭に出て、プラタナスの前に立ちました。
青々とした大きな葉が風にゆられて、すきまから金色の西日がまぶしく差し込んできます。
「ここに言葉を彫るの。今日の記念に」
「ああ、それはいいね!」
「でしょ? なんて言葉がいい?」
「うん。じゃあ、希望っていうのはどう? 君が歌ってた歌の……」
ふたりはカッターで『希望』という文字を彫りはじめました。カッターの刃は柔らかいので、くっきりと深く彫るには時間がかかりましたが、しっかりと刻みつけると、顔を見合わせてにっこり笑いました。
次の朝、未久は早めに登校すると、裏庭へ行ってみました。ところが、どうしたことでしょう。プラタナスの木に、彫ったはずの文字がありません。
「やだ。わたし、昨日廊下でいねむりして夢でもみたのかしら?」
ですが、少年から励まされた記憶ははっきり残っています。未久はその言葉に勇気づけられて練習に出ると、声も元通りに、いえ以前よりずっとうまくなっていたのです。
「未久ちゃん、ごめんね」
練習のあと、みんなはあやまりました。
やがて、夏休みになりました。秋のコンクールに向けて、夏休みは練習に一層熱が入ります。
夏休みの間の練習は、土曜、日曜以外は毎日、午前中に行なわれました。そんなある日、
先生の都合で一度だけ午後に予定が変わったのです。
練習が五時に終わると、みんなはばたばたと帰っていきましたが、未久はゆっくりと音楽室を出ました。
(せっかく夕方になったんだもん、『別世界の入り口』を見なくちゃ)
夏の五時頃は、ちょうどいい具合に西日が差し込んでいて、光の水玉模様もくっきりと浮かんでいます。
「あーあー。うん、いい調子」
たったひとりで、木もれ日に包まれて歌うと、いつかの時のように気持ちよく歌えます。
「あれ、君。どこからきたの?」
突然、男の人の声がしたので、驚いた未久はあたりを見回しました。
未久は校舎の二階の西側にある、音楽室の前の廊下が好きです。
そこは、裏庭に生えている大きなプラタナスの木が、窓の際いっぱいに枝をのばしているので、日中はぼんやりと暗くなっていました。
けれど、太陽が西に傾き始めると、がらりとようすが変わります。
窓から射し込む木もれ日が、光の水玉模様になって廊下に映り、風がそよぐとゆらゆらゆれて、幻想的な世界になるのです。
ですから未久は、この廊下を『別世界の入り口』と、こっそり呼んでいました。
未久は四年生になると、迷わずコーラス部に入りました。もちろん歌は好きですが、毎日、木もれ日の中を通って音楽室に行けるのがとても楽しみなのです。
五月のある日のことです。秋に開かれる市の音楽コンクールの日程が発表されました。
課題曲の説明と自由曲を選んだ後、独唱の部に出場する生徒を先生が指名しました。各学年からひとりずつ選ばれるのです。
「では、次に独唱の部の出場者をいいますね。六年生は……」
未久は、友だちのゆりに目配せしました。
(きっと、ゆりちゃんよ)
という意味です。ゆりはゆりで自信たっぷりに、にっこりしました。
ところが、
「えーと四年生は未久さんに歌ってもらいます」
と言った先生の言葉に、未久は耳を疑いました。
「ええ?」
驚いてゆりの方を見ると、ゆりは顔をこわばらせています。
他の部員たちも驚いて、
「えー?」
「うそー」
と、口々に言っています。
五、六年生は予想通りでしたが、四年生で一番上手なのは、ゆりだったからです。
(どうしよう。どうしてわたしなのかしら)
未久は不安で胸がいっぱいになりました。
「おめでとう。未久ちゃん。よかったわね」
ゆりの言葉はとげとげしく冷たいものでした。
次の日から、ゆりの態度がよそよそしくなりました。ほかの部員とひそひそ話して、未久が近寄るとさっと離れてしまいます。
未久は思い切って先生に相談しました。
「先生、独唱をゆりちゃんにしてもらえませんか? わたしよりゆりちゃんのほうが上手だし……」
先生は未久の気持をわかってくれましたが、
「この歌はあなたの声の方があってるの。ゆりさんにはちゃんと説明するわ」
と言いました。
ところが、ゆりはこのことを逆恨みして、みんなといっしょにいじわるをするようになったのです。
未久が練習していると、後ろの方から聞こえよがしな声がしました。
「あれでうまいつもりなのよ」
「聞いちゃいられないわね」
「ゆりちゃんならもっと声が伸びるのに」
ゆりはふふんと鼻でわらっていました。
しばらくすると、未久は声がかすれて、うまく歌えなくなってしまいました。
初めて練習を休んだ日の夕方。みんなが帰ったあとで、そっと音楽室前の廊下に行ってみました。
プラタナスの葉陰から差し込む水玉模様の光は、いつもと変わらず未久を包んでくれます。
廊下に映った葉陰と光がくるくるとゆれて、しだいに気持ちがやわらいできました。
風がそよぐと聞こえる、さやさやという葉音が、歌を歌っているような気がします。未久は目を閉じて聞いているうちに、ふと歌ってみたくなりました。
何も考えず、だれのことも気にしないで、心を込めて歌いたいと思ったのです。
♪ゆめはー おおきく……♪
すると、のびのびと声が出ました。
(歌える。声がちゃんと出る!)
なんだか今までよりもずっとうまく歌えたような気がしたのです。
♪白い翼の鳥になって
いつか 青い空へはばたく……♪
ぱちぱちぱち……。拍手の音にふりむくと、見かけない少年が立っていました。
「君、上手だね。すごくきれいな声だ。ぼく、力がわいてきたよ」
未久は照れくさくなって、下を向きました。
「ねえ、はじめから聞かせてくれない?」
「ええ? だめよ。わたし、へただもん」
「そんなことないよ。すごくきれいな声だもん」
どうしてもと少年が言うので、未久は歌いました。
♪自由な心で……
悲しみをこえて……♪
少年は目を閉じて聴いています。歌が終わる頃には、うっすらと涙をうかべていました。
「ありがとう。ぼく、転校するんだ。最後にいい思い出になった」
「ほんと? そう言ってくれてうれしい。わたし、自信なくしてたんだ」
「だいじょうぶだよ。君ならきっと!」
「ありがとう。なんだか元気が出た」
未久が笑うと、少年も笑いました。
「ぼく、ここが好きなんだ。ほら、水玉模様の木もれ日がさ、すごく神秘的っていうか」
「そう。わかる、わかる。なんだか別の世界とつながってるみたいな気がするの」
「別の世界かあ。うん、そうだね」
どうして今まで、こんなに気の合う少年とあえなかったのでしょう。
未久はうれしくて、胸がドキドキしました。しばらくの間、そこで話した後、少年が転校してしまうことが残念でたまらなくなった未久は、窓の外を見て、あることを思いつきました。
「ねえ、裏庭に行こうよ」
未久は急いでランドセルを背負うと、少年の手を引っ張って裏庭に出て、プラタナスの前に立ちました。
青々とした大きな葉が風にゆられて、すきまから金色の西日がまぶしく差し込んできます。
「ここに言葉を彫るの。今日の記念に」
「ああ、それはいいね!」
「でしょ? なんて言葉がいい?」
「うん。じゃあ、希望っていうのはどう? 君が歌ってた歌の……」
ふたりはカッターで『希望』という文字を彫りはじめました。カッターの刃は柔らかいので、くっきりと深く彫るには時間がかかりましたが、しっかりと刻みつけると、顔を見合わせてにっこり笑いました。
次の朝、未久は早めに登校すると、裏庭へ行ってみました。ところが、どうしたことでしょう。プラタナスの木に、彫ったはずの文字がありません。
「やだ。わたし、昨日廊下でいねむりして夢でもみたのかしら?」
ですが、少年から励まされた記憶ははっきり残っています。未久はその言葉に勇気づけられて練習に出ると、声も元通りに、いえ以前よりずっとうまくなっていたのです。
「未久ちゃん、ごめんね」
練習のあと、みんなはあやまりました。
やがて、夏休みになりました。秋のコンクールに向けて、夏休みは練習に一層熱が入ります。
夏休みの間の練習は、土曜、日曜以外は毎日、午前中に行なわれました。そんなある日、
先生の都合で一度だけ午後に予定が変わったのです。
練習が五時に終わると、みんなはばたばたと帰っていきましたが、未久はゆっくりと音楽室を出ました。
(せっかく夕方になったんだもん、『別世界の入り口』を見なくちゃ)
夏の五時頃は、ちょうどいい具合に西日が差し込んでいて、光の水玉模様もくっきりと浮かんでいます。
「あーあー。うん、いい調子」
たったひとりで、木もれ日に包まれて歌うと、いつかの時のように気持ちよく歌えます。
「あれ、君。どこからきたの?」
突然、男の人の声がしたので、驚いた未久はあたりを見回しました。