この手は傷だらけ③
整った顔だちをしているのに、喋ると口が悪い美術の一番若い先生。
そんなふうに評される明本昌器がただ荒っぽいだけではないのを、白橋鋭介は知っている。
凝り性で、一つこだわるとどこまでも歯止めが利かなくなってしまう鋭介は、授業の課題を時間内に提出するなんてとうてい無理な話だった。本当ならそんな加減を知らない生徒は「もう受け付けないから」と切り捨てられておしまいになるはずが、彼は鋭介一人のために自分の時間をつぶしてまで待っていてくれるのだ。
――まったく、俺だって早く帰りたいんだから授業時間内に終わらせるようなもの描けよなあ。何度目だよ、ほんとに。
鋭介のために設定し直された締め切り時間ぎりぎりに彼を訪うと、必ずそう悪態をつかれた。美術準備室の、私物と思しきソファにゆったり身体を預けながら、昌器は作品を受け取ってくれる。その瞬間を、知っている。彼の手に完成作品が渡ったとき、ほっとした表情を浮かべるのを見るのが鋭介は好きだった。
信頼してくれているのだと思う。絶対に完成させて出しに来るような生徒だと信じてもらっているのだ。
期待、という言葉が当てはまるかはわからない。しかし、彼を裏切りたくないのは確かだった。俺の貴重な人生の時間をおまえのために消費してやってんだからな、感謝しろ。そういう、恩着せがましく聞こえる台詞すら、鋭介にはありがたかった。
なにより、優しい人を困らせるのは気が引ける。
「先生っ! 間に合いましたー!」
とはいえ、気が引けようが引けなかろうが鋭介の手が遅いのはどうにも変えようがなかった。一年生の最終課題、進級のかかっている作品すら締め切りを延ばしてもらったことに多少なりとも申し訳なさがある。
ノックするのも忘れ、鋭介は準備室のドアを元気よく開け放った。たてつけの悪いこのドアは、いっそ壊して直してしまったほうがいいような気がする。
「あれ? 先生?」
いつもなら粗暴すぎる登場の仕方を一番に叱られるのだが、今日に限ってそれがない。どうしたんだろう、と首を傾げながら中に入ると、あのソファの定位置にきちんと昌器が座っている。鋭介の姿を認めると軽く頷くだけで、うるさいとも静かにしろとも諭されなかった。
「また遅くなってすみません」
「ああ……別に」
階段を駆け上がってきた鋭介のためにソファのスペースを半分提供してくれるのはいつもと変わりない。いつも、と違うのは文句を言わないこと、それから「これは病気の域だろ」と苦笑いしてくれないことだ。淡々と、まるで昌器の中から意識が抜けてしまったかのように彼は機械的に返事をする。
体調でも悪いのかな。なんとなく顔を覗き込んではいけない気がして横目に昌器を見やったが、別段顔色が悪いわけでもない。心配なのは、驚くほど彼に表情がないことだった。全身の力を抜き、無感情に彼はソファに身をぐったりと委ねている。うっすら読み取れるとすれば、それはおそらくむなしさに違いなかった。
なにか、腹に溜め込んでいそうな、必死にそれから目を逸らしているような顔つきだった。
「……あ」
昼休み終了のチャイムが鳴り出した。次の英語は、これまた提出物があって、担当教師が締め切りに異常に厳しいことで有名だった。
「先生、じゃあ、ありがとうございました」
「ああ。受け取ったから」
様子のおかしい昌器に後ろ髪を引かれながら、鋭介は仕方なしに立ち上がった。本当は、もう少しここにいたい。けれどもそれ以上に、自分のことも労わってやりたかった。
「えっ」
昌器に軽く頭を下げ、一歩踏み出した瞬間だった。くっと、袖を引かれた。びっくりして振り返ると、昌器もまた目を丸くしてこちらを見上げていた。
「あ、……悪い」
無意識の行動だったらしく、昌器はあわてたふうに手を引っ込めた。顔を隠すようにそっぽを向いてしまう前、かちあった視線があまりにも心細そうでもの言いたげで、鋭介はふたたび彼の隣に腰を下ろした。今彼のもとを立ち去るのは、非情すぎる。
「気にしてないですよ」
ひとまず、一言だけ告げて鋭介は口を閉ざした。それは同時にここにしばらくいる、という意思表示だったのだが、昌器はとくになにも返してはこなかった。
会話のない空間を、金属的なチャイムの音が埋め、やがて沈めていく。あの英語の先生は時間にも厳しいから、もう出席を取り終えてるんだろうな。ちゃんと提出できる形にだいぶ前にしといたのに、もったいなかったな。もう受け取ってくれないんだろうな。成績大丈夫かな。
よどみなく続く沈黙の中、鋭介はぼんやりとそんなことを考えた。しかし成績がどうあれ、昌器の傍を離れてしまったら後々後悔しそうなことは、なんとなくわかっていた。
時おりちらっと昌器のほうを見るが、相変わらず無表情に身体を投げ出しているだけで、まったく口を利こうとはしない。いなくていいと言われないのなら、鋭介は部屋を出るつもりはなかった。
彼のことをよく知らないな、と気づいたのはかける言葉が見つからなかったからにほかならない。締め切りを延ばしてもらって、毎度昼休みに待ってもらって、少し話をしてと、生徒の中では自分が一番昌器と親しい自信はあったが、よくよく思い返してみればただそれだけのことだった。名前と、年齢と、職業と、優しいところ。知っているのはたったそれだけで、ほとんど、明本昌器という人を知らないに等しいのだ。
もう少し、この人をわかっておきたかった。ふと、鋭介は彼に踏み込まないでいたのを悔やんだ。先生と生徒として仲がいいだけでは、込み入った事情を聞きだしにくい。
助けてあげたい、というおこがましい気持ちではなかった。一人にしておいてはだめだ。どちらかといえば、そんな直感が働いていた。
「……授業でねえの」
意外にも、会話の糸口を紡いできたのは昌器だった。あきれたような、とまどっているような声。
先生はどうしてほしいんですか。とても、そうは言い返せなかった。
「……俺、帰ったほうがいいんですか」
「おまえの勝手だろ」
頷きやすいようにと、鋭介なりに気をつかった返事だったが、あまり意味がなかったらしい。素っ気ない昌器の言葉にはどこか、強がっているような雰囲気があった。
「じゃあ、います」
きっぱり言い放って、鋭介は少し身体を昌器のほうに寄せた。触れあった昌器の肩がかすかにふるえる。あのとき、どんな思いで彼はこの手を引いたのだろう。彼のところに来たのがほかの人でも、ああして引きとめたのだろうか。
見もしない誰かが頭をよぎって、喉元まで、不快感がせり上がってきた。どうせ頼るのなら、自分にしてほしい。役にはたてないかもしれないが、こんなふうに隣にいることはできる。さらに、もうほとんどあってないような昌器との距離を詰めた。彼の心中がわからないぶんわずかでも、体温だけでも近づけたかった。
「……連絡が一切できなくなって」
「先生……?」
小作りな頭が、こてんと二の腕に預けられ、鋭介は目を見張って昌器を見下ろした。身長差と、彼が俯いているせいで表情は確認できなかったが、すっかり棘のなくなった態度にひとまず胸をなで下ろす。なにかを探るようにして話す彼の呼吸は長く、深い。
「でも、急だったから。……だから、部屋行ってみたら、鍵、変わっててさ」