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おつきさまほしい

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「おつきさまほしい」

これは、誰が言った言葉だったっけ。
あ、そうだ。思い出した。亜矢だ。幼馴染で、いじめられっこで、いつも私にべったりだった、亜矢が言ったんだ。
月に手が届かないことは知っているくらいの分別はあって、でも二人だけの暗い部屋で親の帰りを待つのはさびしいと思うくらいには子供だったころのことだ。
そのとき、私はなんて言ったんだっけ。



「起きて、美冬ちゃん」
揺さぶられて目を覚ます。いつの間にか眠ってしまったようだ。と、そこには亜矢の姿があった。
なんで、私の部屋に、亜矢が?驚きで声の出ない私をよそに、亜矢はにっこりと笑って言う。
「ね、星を見に行こうよ」


亜矢は昔からとてもマイペースな子だった。
その性格が災いして、私くらいしか友達がいなかった。今で言う、「空気の読めない子」として疎んじられたというわけだ。
加えて、亜矢の家は家庭環境が複雑で、年端の行かない亜矢を夜中に一人きりにすることは普通だった。
だから、仕事が忙しくて帰りの遅い両親をもつ私と、毎日のように一緒に留守番をして長い夜をすごした。
私たちは同い年だったけど、私は積極的にリーダーシップをとって亜矢のお姉ちゃん役を担った。
私がしっかりしなくちゃ。亜矢を守ってあげなくちゃ。そう思ったからだ。
この関係は、私たちが中学生になるまで続いた。


「懐かしいね、こうやって二人で歩くのって」亜矢はそう言って、楽しそうに笑う。
私は、そうだね、と返すことしかできなかった。
亜矢は、何を思って私に話しかけているんだろう。わからない。笑顔は、何も教えてくれない。
「あ、着いた。やっぱり星を見るならここだよね」
亜矢はそう言うけれど、実際に私たちはここで星を見たことなんてない。学校の教え通り、暗くなる前には帰っていたから。
ここ、というのは通称「山公園」とよばれる近所の小さな公園で、本当は地域の名前がついているけれど、公園の中心にお椀をふせたような大きなコンクリート製の山があることから、私たちはそう呼んでいた。
屋外にあるもので、私たちが自力で登れる、もっとも大きいものがこれだった。
だから、この山の上で星を見たら、きっと手が届くよね。そう言っていたときがあった。そんな絵空事が本物に思えたほど、昔のことだ。
「一回、美冬ちゃんとここで星を見たかったんだ」
亜矢は山に登ろうと奮闘しながら声をかけてくる。
「ここが、一番、おつきさまに近いし」
「あんた、まだ月がほしいなんて思ってんの」
自分のなかの動揺が出てしまったのか、ついつっけんどんに言ってしまう。口にして、自己嫌悪にいたたまれなくなった。
亜矢とは、中学入学以来、まともに話した記憶がない。
というのも、中学生になって、私と亜矢の関係が崩れ始めてきたからだ。
私は亜矢と同じ公立の中学校ではなく、私立を受験し、合格した。
別々の学校に通いながらも、亜矢は私の家で過ごす習慣を変えることはなかった。
しかし、私の方はレベルの高い周囲についていくのに必死で、毎日勉強に明け暮れ、中学生になってまで家に入り浸る亜矢がだんだん疎ましくなってきた。
成績が上がらないのは、亜矢が家にいて集中できないからだ。
被害妄想は加速し、手のつけられないほどに膨らんだ。
ある日、亜矢が夜食代わりに紅茶を淹れて私の部屋に入ってきたときだった。
ちょうど、結果の悪いテストが返却され、苛立っていたときだった。
私は、熱い紅茶の入ったカップを亜矢に投げつけた。
なんであんたがいるのよ、邪魔なのよ、出てってよ。
そう叫んだ。
亜矢は一瞬驚いたように呆けた表情を見せたが、すぐに背中を向け、家から出て行った。
それきりだ。
もちろん、全部私が悪いのだ。うまくいかない現実を、全部亜矢のせいにして納得したかっただけ。
すぐにでも追いかけて謝ればよかったのに、どの面さげて何を言えばいいのかわからなくて、結局、なにもできなかった。
亜矢は、私を怨んでいるだろうか。
「ちがうよ」
亜矢の言葉に、驚いて顔を上げる。
「私がほしいんじゃないの。美冬ちゃんに、あげたいの」
張り手を食らったような気分だった。
「美冬ちゃん、いつも私の前では泣かなかったでしょ。私の前では、絶対、弱いところを見せたりしなかった。私たち、同い年で、おんなじだけさびしいのに、いつも私のことを気にかけててくれて」
だから、と区切ると、私に向き直って、笑う。
「私が知っているなかで一番きれいな、おつきさまを、あげたかったの」
声が出なかった。
「でも、あげようと思って手に入るものじゃないからさ。それ以外でなにかしてあげたくて。心理学の本とか読んでね、紅茶がリラックスの効果があるって書いてあったから、毎日淹れようかな、とか思ったんだ。ほら、美冬ちゃん、中学入ってからストレス溜まってるみたいだったから。でも、勉強への眠気覚ましにはコーヒーのほうがよかったかな、わわっ」
私は亜矢を抱きしめた。おもいきり抱きしめた。ちゃんと、暖かかった。
私は泣いた。
心理学の知識なんていらない。遠くにあるおつきさまなんていらない。
私は、亜矢の、その暖かさがほしい。私を思って淹れてくれた紅茶がほしい。
「亜矢、毎日、紅茶、淹れてよ」
「ごめんね」
「さみしいじゃん、うちに来てよ」
「ごめんね」
「なんで死んじゃったのよぉ」
一拍おいてから、亜矢は言う。
「ごめんね」
亜矢が死んだことは知っていた。明日は、お通夜だ。
「私、美冬ちゃんが泣いてくれて、嬉しい」
「ばか、泣かないわけ、ないでしょ」
「だって、美冬ちゃん、いつも私の前では絶対に泣かなかったでしょ。泣くのを我慢するって、すごくしんどいもんね。いつも我慢させて、ごめんね」
ばか。
私のこと、もっと怨みなさいよ。嫌いになって当然なのに。
ひどいことを言った。ひどいことをした。
あんたが私のことを、こんなにも思ってくれていたのに。
「おつきさまなんていらない」
私は、嗚咽の間から、なんとか言葉を振り絞った。
「亜矢に、いてほしい」
亜矢は、ゆっくりと私から体を離した。
「見て、美冬ちゃん」
亜矢は空を仰ぐ。
「おつきさまだよ」
亜矢の言葉につられて空を見上げる。
そこには、真円を描く、大きな満月があった。
作品名:おつきさまほしい 作家名:やしろ