ツイン
ツイン
「2112……左か?」
誰もいない、こぢんまりとしたエレベータホールに二人は降り立った。
「……だね」
壁に張り付いた銀のプレート上の矢印に導かれ、足音もなく歩いた。
「早かったかな」
悠輔は、途中の開け放たれた扉の前に鎮座する大きなカートに目を遣って呟く。その扉の奥からは掃除機か何かの音が響いている。
「早いに越したことはないし、別にいいじゃん。とりあえず部屋で一息つこうぜ」
カードキーを切りつつ、修悟は言う。
きょうび、インターネット等により容易な手配が可能な受験生向けのホテル宿泊プランというものが、様々な旅行会社によって設定されている。その内容というのは、単に宿泊施設のディスカウントのみというわけではなく、電気スタンドの貸し出し、ホテル内のレストランが通常より安く利用できるクーポン、前日に手配し翌朝手渡ししてもらえる弁当など、余裕のない受験生にはたいへんありがたいホスピタリティが保障されていたりする。
「おっ、なかなかいい部屋じゃん」
十四時過ぎ、まだ西日ですらない陽光の差し込む部屋に足を踏み入れると、その光を豊かに吸い込んだ柔和な薄いカーテン越しに、駅前の中層ビル群や、少し離れたところに競技場を見下ろすことが出来た。
「まさかこんなにいいホテルに来るとは思わなかったね」
「望みじゃなかったけどな」
駅から程近い、円筒形に空に突き出したこのホテルは、受験生でなくてもおいそれと泊まれるようなものではない。ところが、九月半ばに既に開始していた申し込みに遅れること約二ヵ月半、漸く高校の廊下においてあったパンフレットによって宿を確保しなければならないことに気づかされた頃には、大学から私鉄で二駅の安価なホテルは満室となっていた。結局大学までJRと私鉄とを乗り継ぐ必要がある、やや豪華なこのホテルに落ち着いたのだった。乗り継ぎを挟むが、距離的にはさほど苦にならないのが救いだった。
「あーあ、なんか疲れたなー!」
修悟はかばんを投げ出し、ベッドに飛び込んで顔を枕に埋めて吐き出すように言った。
「都会ってなんであんなに混んでるんだろうね。始発でしかも午後なのに、全然座れなかったね」
悠輔もゆっくりとベッドの縁に腰を下ろす。
二人の実家は、さほど離れているともいえないが、ここまでの移動には正味二時間半以上は要した。実家近辺であれば、昼下がりなど、ロングシートで寝転がることができそうなほど、列車内は閑散とする。だから、各駅停車はともかく、都会の特急や急行などの優等列車はいつでもある程度混雑するという事実を知る由もなかったのだった。
「ところでさ、机……どうしよっか」
一通りかばんの中から参考書やノートを出し、悠輔は言った。
ホテルに泊まっている目的のひとつには、勉強場所を確保することというものがある。受験する大学の近辺に住む親戚の家に泊まったり、友人の家に泊まることもできるが、気を遣ったり気が散ったりして、追い込みの妨げになってしまうことが多々ある。直前にそんなに追い込みをしても果たして効果があるのかどうかという疑問はさておき、必死な受験生であれば、就寝までの時間をなるべく勉学に充て、少しでも不安を解消したい、と思うものである。
「狭いな……どっちかが鏡台使って、もう片っぽがこっちのテーブルか。でもまぁ、一人ずつ使えば問題ないだろ」
問題集やら辞書やら広げるには、窓際の円形のテーブルは少しキャパシティーが足りないように見える。それも、部屋の照明では暗すぎるため、電気スタンドを借りて置かなければならないので、使える領域はより狭まる。
「じゃあ、俺は自習室が開いてる間はそっち使うよ」
悠輔は一旦出した書籍類をしまい始めた。
「自習室?そんなのあるの?」
と、修悟は起き上がって、このホテルの受験生用パンフレットを手に取った。
「……マジだ」
もはやパンフレットと呼ぶよりは説明書とでも言ったほうが似つかわしい、このプランのための臨時のものであるが、二階の小さなバンケットが受験生に対して解放されている旨が、コピーのかすれた写真つきで紹介されている。
「んじゃ、俺行くね!晩メシのときにまたメールするから」
「ん、おう」
半分あっけに取られている間に悠輔が出て行くと、とたんに部屋は静まり返った。修悟は、カーテンを開け放って、窓の前に立ち、伸びをした。
「あー!やる気ねぇ!」
どこかけだるい室内の空気に、慣れない疲れを経験している体がいとも簡単に侵食されていく。もう一度ベッドに腰を下ろし、テレビのリモコンを探したが、この時間にはおそらく面白い番組はないだろう、という甚だ消極的な理由で手を止めた。
どうせ他にすることもない、と気持ちを切り替え、ひとまず電気スタンドを、悠輔の分も合わせて二台借りておくことにした。フロントに電話を入れれば持ってきてもらえるのだろうが、気分転換だとか、飲み物を買っておくとか、自らを納得させる理由をつけた上で、わざわざ階下まで赴いた。
相変わらず誰もいないエレベータの中で、修悟はズボンの右ポケットに振動を感じた。悠輔からのメールだった。
<FROM : 瀧本悠輔
SUB : 自習室
意外と居心地いいかも♪
お茶とかコーヒーが置いて
あって自由に飲めるよ!
修悟も来れば?^-^
まだ今は空いてるよ〜>
さすがホテル、などと思いながら、ロビー階に到着した。まずは、手早く用事を済ませよう、とフロントへ向かった。
「2115の市来修悟ですが、電気スタンド二つ貸してもらえますか?」
修悟が予想していたとおり、スタッフには、ご連絡を下さればお持ちいたしましたのに、と言われた。それでも、用事のついでだから、と言って目当てのものを二つ受け取ってから、それが意外とかさばることに気づいた。こんな高層のホテルなら、各階にも分けて置いてあったんじゃなかろうか、などと考えた。帰り道にメールを返信しようとしていたが結局それもかなわなかった。
部屋に戻ってスタンドを下ろすと、その途端に、飲み物を買っておくことはおろか、自販機の位置も確認し忘れたことに気づいた。もう一度部屋から出ることが何故か途轍もなく億劫に感じたので、悠輔にメールを返信することにした。
「自習室ねぇ……」
溜息混じりに返信のボタンを押した。
<TO : 瀧本悠輔
SUB : Re: 自習室
マジか、ホテルってすげぇな
でも俺はいいや…なんか、
こっちはこっちでいいような
気がする(笑)
あ、電気スタンド借りといた!
悠輔の分も。>
何故か、送信の操作でいつもよりも俊敏に指が動いた。
「……断っちった」
修悟は実のところ、折角一緒に来てるのだから、ある程度会話できる環境で勉強したいと思っていた。