被虐的サディスティック
彼女はそう言って枝豆を上に掲げて、ぽとぽとと口の中へと落としていった。
「ちょっと先輩、飲み屋なんですからそんな下品な食べ方しないでくださいっ」
バイトの先輩である彼女――南 春菜先輩は、ごめんち、と謝りながら残り半分のビールを一気に飲み干した。
「確かについこの前まで私が生徒の側だったはずなのに、教師の立場に立ってみると、生徒たちがやけに幼く見えて、かわいいなんて思っちゃったりします」
「あらら、あらら? 美紀ちゃん、さては教育実習を利用して高校生と恋愛サーキュレーションしちゃうのかしら、かしら?」
「しませんよ。というかそんなことしたら即刻クビですよっ」
「んん? 恋にはルールも糞もないって言うじゃないかぁ〜」
「食事の場なんですから、言葉を慎んでください!」
おっとっと、これは失敬、と言いながら、南先輩は目をぎゅっとつむって猿のように後頭部をぼりぼり掻いた。
南先輩は普段はおとなしくて、どこか大人びた雰囲気を感じさせる(見た目がナチュラルなギャル系だからかもしれないが)女性の中の女性、という人だ。また、さすが声優を目指しているだけあって、元の声の発音の良さはもちろん、様々な声色をコントロール出来る。ただ――酒が入ると急に下品になってしまうのだ。
「おいらがジョシコーセーだった時は、実習生をさんざんからかってたケドねー。キャハハ」
等と言っていたことから、学生時代の彼女は教師にとっては厄介な生徒だったのかもしれない。つまり、これが南先輩の本性なのだろう……。真実を知ってから結構な年月が立つのだが、それでも毎回お酒を交わす度に、残念な気分になってしまう。
「それで――」
美紀ちゃんは、その子をいじめから解放させてあげたいの? と南先輩は姿勢を正しながら聞いた。真剣な目つきに変わり、さっきまでの一人称がめちゃくちゃ(多分キャラクターを変えていたのだろう)の悪ふざけから、勤務中の真面目な南先輩に戻った。
「解放……そこまで出来るかは分からないんですけど、やっぱりそういうのは見ていてほっとけないです。ましてや教師という立場に立ったら尚更です」
まぁ、そうよね、と南先輩は腕を組んで頷いた。
「その子の受けてるいじめが、例えば暴力とかあからさまな嫌がらせだったら、まだ避けることもできると思うんだけどねぇ」
「どうやってですか?」
「そういうタイプのいじめはだいたい首謀者がいて、その首謀者に引っ付いてる奴らと団結して、気に入らない生徒一人を集中攻撃するの。そういう奴らは大抵その子がいじめの末に登校拒否をしてしまっても、また別なターゲットを探して今度はその子をいじめる。弱肉強食みたいなものなのよ」
「じゃあ、どっちにしろ解決しないじゃないですか」
「まぁ、真っ白に解決、とは行かないけど……例えばいじめてる側、加害者がやんちゃな子供で、いじめられている子、被害者がおもちゃだとしましょう」
いじめられている生徒をおもちゃに例えるのもどうかと思ったが、私は黙って先輩の話を聞いた。
「子供はおもちゃがあれば遊ぶ。おもちゃがそこに一つしかなければ、飽きるか壊れるまで遊ぶ。――じゃあ、もし、おもちゃで遊んでいる最中に、別なおもちゃがプレゼントされたら? そっちの方が今遊んでいるおもちゃよりも楽しそうだったら?」
「新しいおもちゃの方に、とりあえずは食いつきますかね」
「でしょ? ……つまりそういうことなのよ」
どういうことですか、と私は聞きながら残り僅かの梅酒を飲み干した。
「だからちょうど今、新しいおもちゃ――」
先輩は私に向かって真っ直ぐ指を指し、
「教育実習生の、美紀ちゃんが差し出されたところなんだよ」
にこりと笑いながら言った。
「え、えぇ? それってつまり、私が被害を被る、ってことですか?」
「そうなるね。それなら一時的にその子はいじめっ子からの被害を避けられる」
「確かに生徒がいじめられるよりは、私が学校にいる期間だけからかわれる方がマシですけど……でも、今回の件に、首謀者はいないらしいです」
「ん〜、あたしは絶対いると思うなぁ。例えハブられてるだけだとしても」
先輩は通り過ぎる店員を呼び、会計を頼んだ。
「……親友とのケンカであっても、その子かたまたまひどいことを誰かに言ってしまったとしても、噂が広がらなきゃそんな状況にはならないと思う。つまり今回の場合は、噂を最初に流した人が首謀者ってこと」
「でもそうだとしても、首謀者を突きとめてどうすればいいんですか? 私がその子本人に向かって悪口を言えばいいんですか?」
「う〜ん、確かにそれもありね。呼び出して説教をしたり、話相手の話を聞こうとしたって、実習生とはまともに口を聞いてくれないだろうし。ただ、場合によっちゃ、クビになっちゃうかもしれないけど」
じゃあダメじゃないですか! と私が半ば怒りながら先輩に言ったところで、会計のレシートが挟んであるボードが渡された。
「結局はさ、実習生は部外者ってことよ」
「部外者……?」
「そうそう。部外者は余計なことをしないのが一番! 美紀ちゃんは美紀ちゃんで、そういう部分も勉強の一貫だと思えばいいのよきっと。それが嫌なら、まずクラスの子を全員覚えて、一人一人とコミュニケーションを取っていくのが先決じゃない?」
部外者とはっきり言われてショックは受けたが、確かに先輩の言うとおりに、私は部外者なのだ。OBとは言っても、今の学校に私を知る生徒は一人もいないし、先生も異動があるのだから、私が卒業してから入ってきた先生も何人もいるはずだ。それに、新任教師ならまだ時間の問題だが、私はあくまで教育実習生。教師を務める期間はきっかり決められていて、それを生徒たちもよく知っている。
私は困った生徒を助けるような救世主ではなく、自分の勉強に生徒たちを半ば強制させているのだ。言わば、子供たちの鬼ごっこに、近所の年上のお姉さんが鬼ごっこの最中の心理状況を調べるために、仲間に入れてもらっているようなもの。
それならやはり先輩の言うとおり、まずはクラスメイト一人一人と仲良くしてもらわないといけない。実習生が生徒と仲良くするのではない。生徒にお願いしてクラスの仲間に少しずつ入れてもらうのだ。
「なんか、分かったみたいね」
にこりと笑顔を私に向け、先輩は私の分までお会計を払ってくれた。
翌日。私は昨日よりもさらに念入りに出欠を取った。さらに今日は初めて自分が受け持つ授業のある日だったので、その時に一人ずつ、軽い自己紹介をしてもらった。
確かに千住先生の言っていた通り、希良君は典型的なやる気のない生徒のようだった。
「大山。よろしく」
すっと立ち上がってそれだけ言うと、希良君は重力が急に二倍になったかのようにすとんと座り、そのまま机に俯した。
「ほら、ちゃんとフルネームで挨拶しないさいよ!」
「うるせえなぁ……いいだろ、実習生なんだから……」
丸聞こえのコソコソ話に私は苦笑いもしながら、次の生徒の名前を呼んだ。どうやら隣に座る磯口 由希ちゃんが、希良君のお世話係らしい。
「乃木坂 佳織さん」
「はい……」
作品名:被虐的サディスティック 作家名:みこと