被虐的サディスティック
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そんな、何ヶ月も前にどこかに落としていたような記憶が、今、鮮明に思い出された。
無理もない。
あの時と全く同じ状況が、今起こっているのだから。
輪郭もあやふやな暗さだったあの時とは違う。今日はまだ、太陽が天に位置している。そして、誰も入って来れない広い空間に、二人は密接している。
舌の感触はあの時と変わらなかった。溶けそうなようでいつまでたっても溶けないそれは、噛むことは出来ないし、味わうことも必要としない。ただ、全身の力が抜け、彼女に身体を預けたくなる。そんな安定しない身体を互いに寄せ合うため、二人とも離れられず、離れようともしなかった。
彼女は舌を絡ませたまま、胸元で手を動かす。希良はそれがどういう動作か、見ずともその場の流れで察知した。
希良は彼女に寄せていた自分の体重を、徐々に増していき、わざとバランスを崩した。彼女は抵抗するどころか、希良の体重を受け止め、そのまま背中から床に仰向けに倒れた。
唇が自然に離れ、希良は目蓋を開く。視界には、床に垂れた彼女の髪と、半分くらいボタンが開けられたワイシャツから除く、淡い水色の下着だった。
希良は反射的に顔を横に向け、視線をずらした。我に返ったわけではない。ただ、罪悪感のようなものを感じたのだ。
「……ねぇ、こんな話知ってる?」
彼女は状況に似合わず先ほどと変わらない口調で希良に尋ねる。
「学校がつまらなくて、サボってたら、自分と同じように学校をつまらないって思ってる人がいて。二人は気があって、体の関係も作っちゃって、そのまま一緒に退学しちゃうの」
「なんか……パン銜えながら朝に走るぐらい、よくありがちな話だな」
「それで、二人は家にも帰らなくなって、バイトか何かで稼ぎながら、あちこち転々としてどんどん故郷を離れていって。それで、ある日大喧嘩して、どちらかが衝動的に浮気をしちゃうの」
「お前、昼ドラの見過ぎじゃないか?」
希良は視線を戻し、残った止められたボタンに手を置く。
「でね、それがきっかけで、相手の気持ちが互いに分かって、仲直りするの。しかも、彼女のお腹の中には、既に新しい命が宿ってた」
「でも、それは別な男の遺伝子でした、とか?」
「黙れ。それでね、赤ちゃんは無事に産まれるんだけど、二人はお金も無ければ、親とももう連絡がつかない。でも養育にはすごくお金が掛かる。男の方は賢明に働くけど、年齢が年齢だから、重労働に回される。女は女で、赤ん坊の世話なんてしたこともないし、同い年で子持ちなんていないから、相談出来る相手もいない」
希良は黙って彼女の話を耳に入れる。ボタンは全て外され、彼女の血管が透き通るぐらいに白い上半身が露わになった。
「そんな生活が、続けられるわけがなかった。男は疲れ果ててギャンブルに走って稼ぎを注ぎ込んでしまう、女は赤ん坊の世話を放棄。やがて男はある日家に帰らなくなり、女は赤ん坊との二人の生活を強いられてしまう」
彼女の呼吸に合わせ、お腹が僅かに上下する。他人のへそをまじまじと見たのは、これが初めてかもしれない。
「もう何もない。残されたのは、幼い子供だけ。女は絶望を目の当たりにして、育児放棄だけに留まらず、ついには虐待をしてしまう」
ぎょっと、希良は彼女の顔に視線を向ける。千佳子は天井に目を向けてまま、話を続ける。
「もちろん一つ二つぐらいの幼児なんだから、反抗なんて泣くことしか出来ない。それどころか、衰弱しているのだから、泣くのも精一杯なくらい。女はそれが、どれほど残酷な行為かもちろん分かってやっている。自分の未来がどうなるかも承知している。でも、やめることが出来ない。子供が、自分の分身が憎くて溜まらない。あの男の遺伝子が混ざった存在がそこにあるのが許せない。だから――彼女は、その子を殺してしまった」
「ミステリーの犯人にありそうなエピソードだな」
「そうかしら。人の創作物だけの話なのかな」
「……心当たりがあるのか?」
千佳子は答えなかった。
「私が言いたいのは、そういう未来になることも踏まえた上で、これからあなたがしようとしていることを続けて、って話」
「んな、大げさな」
「だから、私はこういうことが嫌いなのよ」
「……君は、なにか、それに近い思いをしたのかい?」
希良は優しい、悪く言えば弱々しい口調で彼女に聞いた。
「さぁね。あくまで極端な話よ。自分が相手にきちんと聞いてもらわないと不安だから、言っただけ。その先の判断はあなたに任せるわ」
希良は逡巡したあげく、自分の両手を胸元に戻した。
「……やっぱりあなたは、意気地無しね」
「あんなこと言われたら、で、出来るわけないじゃないかっ!」
希良は怒鳴ろうとするも、声が裏返ってしまった。クスクスと笑いながらその姿を見て、彼女はおもむろに状態を起こした。
「また今度、勇気が沸いたらいつでも読んでね。童貞坊やさんっ」
人差し指で、慌てる希良の鼻先をつんと触れると、彼女は机の上に広げた上着を胸に寄せ、すぐに階段の方へと走り去ろうとした。
「待って!」
希良は先ほどの強い口調を忘れたような女々しい声で、彼女を呼び止める。
「なーに? 理性が抑えてくれてても、本能は抑えられないの?」
「へ、変なこと言うな! それより……」
千佳子は足を止め、振り返って首を傾げた。
「こないだ、赤いスカートを着て、きみ……お前、ここに来なかったか?」
尻込みしながらも、希良は彼女に尋ねた。
「……人違いよ。それは私じゃないわ」
「……そっか」
「じゃあね。また、どこかで合おうね」
彼女はそのまま、部屋を後にした。二人だけの空間は、再び希良一人だけの、放課後の空間に戻ってしまった。
希良はため息をつくために、タバコを取り出した。
唇に触れるタバコのカートリッジをゆっくりと舐めながら、彼女の舌の感触が脳裏に蘇った。
作品名:被虐的サディスティック 作家名:みこと