ブラックジャックの消息
エピローグ
手術台に寝かされたまま、恵が思い出すのは何故か達也のことばかりだった。
30才になって初めてした人間ドックで胃にポリープがあることが分かり、早急に手術をすることになったのだ。
悪性だったらそれは癌ともいう・・・。
初めて乗った手術台は処刑場のようで、そこに括り付けられている自分はまさにまな板の鯉だ。
手術室の外には、夫が3歳になったばかりの娘を抱いて待っている。
今、死ぬ訳にはいかない。
大した手術ではないと言われているが、不安で涙が出てくる。
こんな恐怖を達也は何度も経験してきたのだ。
そのうちだんだんと頭がぼんやりしてきた。
さっき打たれた麻酔が効いてきたのだろう。
そのまま意識がなくなるのが怖くて、恵は必死で目を見開いた。
「怖がるなよ、木下。」
聞き覚えのある突然の声に恵はぎょっとした。
恵を見下ろすように、手術用のモスグリーンの上着と帽子を着衣した医師が立っている。
「・・・黒田君?」
医師はマスクから出た目だけ笑って見せた。
「あの時のデートのお礼。守ってやるから頑張れよ。」
まだ高い、ハスキーな声で医師は言った。
恵は驚きの余り、思わず起き上がった。
「いっ生きてたの?医者になったの?」
恵の大声に手術室にいた看護士や医療スタッフが一斉に振り返った。
「もう麻酔が効いてるでしょう。動かないでくださいよ。」
達也の声で喋った医師が、やれやれといった顔で、さっきとは程遠いしゃがれた低い声で注意した。
訳が分からないまま、恵はまた手術台に寝かされた。
麻酔のせいで夢でも見たのだろうか。
だが、不思議とさっきまでの恐怖感が消えていた。
不安定だったベッドが温かい毛布で包まれたような安心感を感じた。
やがて強烈な睡魔に襲われ、恵は目を閉じた。
もう大丈夫。
きっとブラックジャックはここにいるんだ。
あの日のままの姿で、あたしのことをのんびり待っているに違いない。
薄れゆく意識の中で恵はそう思った。
そして、心穏やかなままに恵は眠りについた。
作品名:ブラックジャックの消息 作家名:雪猫