ブラックジャックの消息
Episode.1
東山中学2年3組の黒田達也の席は今日も空いていた。
その前の席に座っている木下恵は、当てにしていた達也の宿題を写すことができなくなり、休み時間を返上して必死で問題を解いている。
生まれつき心臓に欠陥がある達也は、小学校の時から入退院を繰り返しているにも関わらず、成績は常にトップ。
名前の順序で常に達也の前に座っている恵は、常に達也の頭脳を当てにして生きてきた。
それ故、突然達也に休まれると予定が狂ってしまう。
やがてチャイムが鳴り、大柄な鈴木先生が大股で教室に入ってきた。
タイムアップ。
恵は宙を仰ぐ。
「昨日だした宿題、回収するぞ!今頃ジタバタするな!」
鈴木先生の怒鳴り声が教室に響いた。
「恵、今日もジャックのウチに行くの?」
帰宅時間になって、校門を出ようとしたところ、香奈が恵を呼び止めた。
ジャックとは今日休んでいる黒田達也のことだ。
「行くよ。小学校からの行事だからね。あいつが休んだらノート届けに行くの。」
「そっか、家、近いんだ。」
香奈は興味深そうに突っ込んでくる。
「近いよ。名前も近いしね。」
恵は無表情に返事をする。
「ジャックと付き合ってるの?」
「は?」
好奇心一杯の香奈に恵は冷たい視線を投げ、無愛想に返事をした。
「あいつはいつも生死の境を彷徨ってるからね。そんな余裕ないと思うよ。」
何故、黒田達也がジャックと呼ばれているかというと、それは彼が小学校の頃、いじめられていたことが原因だった。
休みがちで、体育の授業にも参加しない達也が成績がいいのを「ガリ勉」とからかう輩がいた。
その日も教室で座って本を読んでいた達也の周りに男子生徒が集まってきて、いつものようにからかい始めた。
「お前ホントに入院してんのかよ。サボッて家でカテキョーつけてんだろ。」
「ボンボンは違うな。」
達也は表情も変えず、本を読んでいる。
「おい、シカトしてんじゃねーよ。」
達也の読んでいた本を生徒の一人が取り上げた。
見るに見かねた恵が、割って入ろうとしたその時、突然達也は椅子から立ち上がり、いきなり着ていた体操シャツの上着を脱ぐと床に叩きつけた。
恵からは達也の背中しか見えなかったが、からかっていた生徒達は、達也の上半身を直視する羽目になった。
達也を見た生徒達の顔が引きつって硬直している。
「入院してたよ。手術もやった。これが証拠。分かったら本返せよ。」
そう言って達也は体操シャツを拾ってまた着ると、生徒の手から本を奪い返して何も無かったように席についた。
達也の背中側にいた恵は見れなかったが、彼の胸部は度重なった手術の為にツギハギだったのだという・・・・。
その日から彼のあだ名はブラックジャックになった。
事件は小学校の7怪談の一つになり、中学校になった今でも彼はジャックと呼ばれている。
達也の家のインターホンを押すと、達也の声がした。
「木下?ああ、ノートか。悪いな。今開ける。」
玄関のドアが開き、Tシャツにジーパンの達也が出てきた。
「なんだ、元気じゃん。何で休んだのよ。お陰でこっちは・・・。」
ブツブツ言い出した恵を見て、達也は笑った。
「宿題はそろそろ自分でやれよ。本来そういうもんだろ?」
「分かってます。はい、ノート。」
無愛想に恵はノートを渡す。
受け取りながら達也は言った。
「時間あったら入る?かあさん、もうすぐ帰ってくるし。」
「・・・明日の宿題教えてくれるなら。」
そういいながら恵はもう靴を脱ぎ始める。
恵は達也の部屋が好きだった。
科学の本やら、パイロットが主人公の戦争マンガやら、プラモデルやら、男の子の部屋は見慣れぬものばかりで興味が尽きない。
そういえば恵が少女マンガを読んでいた小学校の時、達也は大人が読む文庫本を持ち歩いていた。
子供の頃から大人びていた達也は常に自分より何年も先を歩いていたような気がする。
整頓された勉強机の上には参考書や辞書が置いてある。
「なんだ、勉強してんじゃん。」
恵は少しふてくされた。
恵が授業中黒板を写したノートより、よっぽどレベルの高い参考書だった。
やがてジュースとグラスをトレイに載せて達也が入ってきた。
「何?」
机の上を物色している恵を見て達也は不審な顔をする。
恵は慌てて両手を挙げて言った。
「何でもない。元気なのに何で学校来なかったん?」
「・・・ああ、寂しかった?」
ジュースを注ぎながら達也はニヤリと笑って見せた。
「ばっ、ばっかじゃないの?あんたが来ないと困るんだって。」
恵は赤面しながら言い訳をする。
動揺しているのがバレバレだ。
達也は恵に椅子を勧め、自分はベッドに腰掛けた。
「宿題くらいやれよ。オレがいなくなっても知らないよ。」
「分かってるって。しつこいなあ。でもいなくならないでよ。」
二人は顔を見合わせた。
達也の切れ長の目がじっと恵を見つめていた。
子供の頃は女の子みたいだった達也の顔が最近少し男らしい。
少し前までは甲高い声だったのに、今は少し低いハスキーな声だ。
変声期の途中の少しかすれた声。
恵は何だか恥ずかしくなって、目を逸らした。
それでも達也はまっすぐ恵を見つめて、思い切ったように口を開いた。
「木下、オレが死んだらどうする?」
「・・・は?」
恵はぎょっとして顔を上げた。
ロマンチックなムードは一気に吹き飛んだ。
「今日、病院に検査に行ってたんだ。で、また手術することになった。成長に合わせてしなきゃならないんだって。」
達也は表情を変えず、淡々と話した。
恵は何と言っていいか分からず、黙って達也を見つめる。
「もう、何度もやってるんだ。子供の頃から。でも、今でも運動もできないし。色んな制限があるんだ、この心臓は。だから今度やったところでどうなるか分かんないけど。」
「・・・いつ?」
「来月。だからしばらく学校には行けない。で、多分留年するよ。出席日数足りなくなる。」
達也は溜息をついてから少し笑った。
「だから、木下ともお別れかな。手術して死ぬかも知れないし、生還しても一緒に進級できなくなりそうだ。」
恵は言葉が見つからず、ただ達也の口の動きを見ていた。
達也は続けた。
「で、木下に聞きたいんだけど。オレがいなくなったらどうする?」
「・・・・どうするって・・・。そんなの信じられない。」
「でも、ホントだよ。手術する時はいつも死ぬかもしれないって思う。木下はオレいなくなったら寂しい?」
「・・・さ、寂しいよっ・・・。」
言うなり、恵の目から涙が溢れた。
ボタボタ零れ落ちる涙が恵の制服のスカートを濡らす。
小学校の時から後ろの席にいた達也がいなくなる。
今まで考えたこともなかった事態だ。
ましてやこの世からいなくなるなんて。
考えただけで涙が溢れてくる。
「へ、変なこと言わないでよ。縁起でもないじゃん、そんなの。」
本格的に泣き出した恵に、達也は優しい顔でタオルを渡した。
「サンキュ。嘘でも嬉しい。死なないように手術頑張るよ。」
恵は渡されたタオルに顔を埋めて嗚咽を堪えていた。
やがて達也は泣いている恵の髪に手を触れた。
作品名:ブラックジャックの消息 作家名:雪猫