ローレンツ-mix
なに。返す声が思わず硬くなる。
「昇進の話がある」
「…父さんの?」
父親はイオレと眼が合うと、するり、眼を逸らす。落ちつきなく泳ぐ眼は机の上とイオレの上半身までを行ったりきたりしている。喜ぶべき話しをする態度には見えなかった。そもそも父親の仕事の話など今まで一度だって出た事はない。
「違う。イオレ、の」
本当の名前を言いかけて、父親は口ごもった。その泳ぎまわる眼は一体、空の皿しかない机の上から何を見つけ出そうとしているのか。イオレはリビング唯一の机を消し炭にしてやりたくなったが、ひとまず抑えた。
そんなことよりも、
「どうして?父さんから聞く話じゃないと思うけど」
「魔導士になれ。大抜擢だろう?」
この人は本当の事は言わない。イオレは直感した。
「私にはなれないって知ってるでしょ?王様の部下になるんだもの、すごく良い生まれじゃないと」
それも学校を卒業して三年も経っていない、魔術師としてまだ駆け出しである生まれが不確かな小娘が。王宮に出入りの許される魔導士になどなれるわけがない。
「素性は気にしなくていい。イオレは腕利きの騎士の娘だから」
「何の話、それは」
父親が――この人が、母親を大して想っていないだろうとは思っていた。大事だったなら一人だけ置いてこんな世界になんて来なかった筈だ。大事だったなら母親に瓜二つの娘を遠ざけたりしない筈だ。大事だったなら、こんな、こんな事は言えない。
「私の母親は母さんだけ!あの、写真の人だけよ!たとえ紙の上でいろいろ細工したとしても」
この人は唯一残っている母親の名残、戸籍上のそれを詐称すると言う。騎士の娘。最高の保険を偽証すると。
「そうだ。だから、颯の、母さんの姓に変える」