遼州戦記 保安隊日乗 6
冬晴れの空。誰もが着ているコートやマフラーを押さえて北風に耐えている。そんな中ではトレンチコートを着た男の存在は決して目立つものでは無い。そんな周りの無関心の中、男は長細い筒を持ったままじっと目の前の鳩に菓子パンをちぎっては投げる動作を延々と続けていた。いつからその動作を始めたのか、いつまでそれを続けるのか。誰にもそのことは分からない。その濁った目の中に狂気を見た者は自分を納得させてその場を立ち去るだろう。それほどに男の目は濁りつつも奥に不気味な光を湛えて目の前の鳩をただ眺めていた。
「旦那!桐野の旦那!」
派手なラメ入りの赤いスタジアムジャンバーを着たリーゼントの男が彼に声をかけた。だが桐野と呼ばれた男は無視して鳩にえさを投げ続けた。まるで人違いだというように無視を決め込んで菓子パンをちぎる。
「いやあ、冷えますね」
だがいくら無視されてもスタジャンの男は笑みを絶やすことはしない。それどころか桐野と彼が呼んだトレンチコートの男に話を振ると手にしていた暖かい缶コーヒーを差し出した。
「冬は冷えるものだ。胡州が懐かしいと俺が言い出すと思ったのか?北川君」
桐野はようやく気が済んだというように菓子パンを粉々にして空にばらまいた。鳩達はそれまでの奪い合いから一気に増えた餌めがけて争うようにして飛びかかる。桐野孫四郎はその様を満足そうに見ながら缶コーヒーのプルタブをゆっくりと引き上げる。カチンと響く音に驚いたように鳩が一度桐野の足元から去るが喰い残しのパンを見て再び彼の前にたむろする。
北川公平はしばらくその様子を確認した後、どんな言葉も桐野の関心を引けないと諦めて自分の分の温かい紅茶の瓶のふたを開ける。
「豊川市……保安隊のお膝元。嵯峨惟基……いやあの遼南皇帝ムジャンタ・ラスコー陛下の地元ですよ。乗り込んだのは良いが……」
北川も嵯峨に興味のある人間の一人だった。彼が遼州民族主義グループのセクトに属していたときから反地球運動の旗手たる遼南皇帝ムジャンタ・ラスコーは信奉すべき政治家の一人と思っていた。突然の退位宣言とそれを拒否した遼南を捨ててこの東和に移った彼を迎えるべく同志とともにゲバ棒を片手に東和南港に向かったことも懐かしく思い出される。
ただ、今の嵯峨惟基は同盟と言う自分の作った檻に飼われる人懐っこい猛獣と化したと北川は思っていた。いや、猛獣ですらない。牙を抜かれ、自分の資産にものを言わせて作った『保安隊』と言うおもちゃでじゃれるただの大きな愛玩動物と言うところだ。
北川はそのことを嘆きつつも、自分の隣にいる明らかに未だに猛獣であり続ける男をちらちらと眺めていた。そしてそんな自分も法術と言う牙を持った猛獣でしかも飼い主がいるという皮肉な事実を改めて理解すると自然と笑みがこぼれてくるのが不思議だった。
「……別にあの男がいようがいまいが関係ない。ただ……手ぶらで帰れば御前が悲しむからな。仕事がしやすいように知り合いに部屋を借りた」
濁った目の下に薄ら笑いを浮かべて北川を眺めてくる桐野。何度見てもその目は心臓に悪い。そう思いながら北川は何とか軽口で自分の心を安定させることに決めた。
「へえ……旦那に知り合いか?よくそいつで斬られなかったもんだ」
満面に皮肉を貼り付けた表情の北川が桐野の手の横に置かれた筒に目をやる。その中身、備前忠正の存在を知っている北川は桐野のリアクションを諦めて彼の前にたむろする鳩に視線を落とした。北川がびしびしと背筋に感じる桐野の放つ殺気。鳩はまるで無関係だというように桐野のまき散らしたパン屑を拾い集めることだけに執心している。その様がちょうど二人に関心も持たずに通り過ぎる東和の人々に似て見えて北川はいつもの人懐っこい笑みを取り戻した。
「そう言えば、我々にとっては不愉快極まりない法術演操術者……大人気のようですよ。アングラサイトにその情報を売り渡した南米の工作員崩れの死体が港北に上がったそうです」
北川の言葉を聞いているのかいないのか。ただ桐野は黙ってコーヒーを啜っている。北川としても昔のコネクションで手に入れたそれなりに新鮮な情報を無視されて気分がいいわけもなくわざとらしく大きく咳き込んで見せた。
「遊びか……何かのメッセージがあるのか……ともかく会って見るのも悪くないな。その法術師」
ようやくあった桐野の言葉。とりあえず桐野が彼と因縁のある嵯峨のいるこの街に居を構えたらしい法術師に関心があると分かって北川も少しだけほっとしてほほえんだ。そしてそのまま鳩に目をやると一羽の鳩が突然もだえ始めた。
鳩は声も立てず、何かに首の辺りを握り締められたよう羽をばたつかせる。北川が驚いて桐野の表情を見るがそこにはもぬけの殻のようにじっとその鳩を見つめている悪鬼のような男の姿があった。
「桐野の旦那……」
北川が口を開いた瞬間。目の前でもだえていた鳩の首がぽとりと落ちた。
思わず北川は周りを見渡した。駅近くの公園だが寒さと平日の日中と言うことで誰も異変に気づいたものはいなかった。
「旦那!」
「なあに、ちょっとした悪戯さ。貴様もやってみろよ、気分が少しは楽になるぞ」
そう言うと桐野は立ち上がる。北川は言いたいことは山ほどあったが口の中にそれを飲み込んで歩き出した。外惑星『胡州帝国』の少年兵上がりで嵯峨の部下だったこともあるらしい。北川が桐野について知っていることはそれくらいだった。それ以上は知る必要もないし、知りたくもなかった。
ただこうして目的を一つにして行動しているだけに言いたいことは山ほどある。
「『太子』もご立腹ですよ。旦那が東都に来て何人斬ったと思ってるんですか?」
小声でつぶやいては周りを見回す北川。そのおびえた表情に余裕のある笑みを桐野は返す。
『太子』。北川の今の飼い主であり、法術の公表以前から活動を続けている非公然法術師集団『ギルド』の長。自分が法術師であることを教えたその身元もしれない人物に付き従うようになってから長いが、そんな中でつきあった相棒の中で桐野は一番手に負えない人物なのは間違いなかった。
周りを気にして小声で話す北川をあざけるような表情で一瞥した後、桐野は手にした缶コーヒーの残りを一気に飲み干した。
「俺は人が斬れるから太子に飼われてやっているんだ。斬れなくなればおさらばさ」
そう言う桐野に北川は大きくため息をついた。そして周りを見渡すが豊川駅前南公園。ベットタウンの日中。しかも真冬と言うことで長い筒に黒いトレンチコートと後ろに纏めた黒い長い髪と言う明らかに異質な桐野の姿。通りを急ぐ中年女性やランドセルを背負った小学生も関わり合いになるまいと避けている分だけ彼等の異常さには気がついていないようだった。
「それより……悪戯をしている馬鹿。見つけたとして……斬ってもいいのか?」
赤信号に立ち止まった桐野の言葉に北川は頭を抱えた。
「いいわけないじゃないですか!どうせ自分の力の価値も知らない馬鹿ですよ。先日の政府の愚策の法術適性検査の無料化で受けてみたら適性があって、社会に牙でも向いているつもりなのが見え見えですよ。そんな奴……」
作品名:遼州戦記 保安隊日乗 6 作家名:橋本 直



