遼州戦記 保安隊日乗 6
整備班員にとって女性隊員といえばその異常にタイトで長時間にわたる勤務の繰り返しにより、技術部長の神と崇め奉られている許明華大佐の姿が脳に刷り込まれていた。高圧的でサディスティックなまさに『保安隊最高実力者』。彼女を絶対神として信仰することに慣れてきたところに現れたやさしい女神のような存在をあっさり部隊一の若輩者にさらわれたと言うことで腹の虫が収まらないのは当然の話だった。特に明華から早出が義務付けられていない部隊設立からの古参の下士官達にとってははらわたの煮えくり返る事実だった。
「誰か助けてあげなさいよー」
明らかに助ける気の無いアイシャの言葉。
「べ……別に大丈夫ですから」
西はそう叫ぶとそのまま鼻を押さえて食堂を飛び出して行った。快かなとそれを見送る古参兵達をアイシャは白い目で眺める。
「それじゃあ行くか!」
「後で西に謝って置けよ」
「アタシは上官だぜ……面倒くせえ」
要が呟くようにそう言うとアイシャもカウラも呆れたような視線で見上げる。
「要ちゃん誤りなさいよ。大人でしょ?」
そんなアイシャの一言に要の顔がゆがむ。
「分かったよ……後で謝っておくから」
「ちゃんと謝るのよ……」
アイシャはそう言うとそのまま立ち上がる。手にはどんぶり。誠も今度はアイシャの手を煩わせまいと自分のどんぶりを手に取る。
「行きましょ」
そのままどんぶりをカウンターに返すとそのままアイシャは出口へと向かった。
「そうだ、ラーナ。飯は食ったか?」
いつの間にか手に湯飲みを持ってくつろいでいたラーナに要が話題を振る。突然のことに戸惑うように視線を泳がせた後、静かにうなづく。
「ええ、まあ」
「食べたのならいいけどな。神前。アタシはおやつが食べたい」
突然の要の一言。誠は先週警備部の新人が買ってきた月餅が厨房の冷蔵庫にあることを思い出して立ち上がる。
「ああ、誠ちゃん私のも!」
アイシャも叫ぶ。誠はそのまま厨房に飛び込んだ。
食事当番の管理部の面々が冷たい視線で大きな業務用冷蔵庫に飛びつく誠を迎える。
「女ばかりで……うらやましいねえ」
洗い場で背中を向けている菰田の言葉に肝を冷やしながら誠は月餅を取り出すとそのままカウンターに走る。先ほど慌てて要が湯飲みを返したことと、カウラの湯飲みが無いことを思い出した誠はそれをトレーに乗せると急ぎ足で要達の所に辿り着いた。
「ご苦労」
「ありがとうな」
当然のことのように受け取る要。カウラはすぐさまポットに手を伸ばす。
「本当に……神前曹長、いつもお疲れさまです」
そんなラーナの気遣いの言葉を聞いて苦笑いを浮かべる誠。
「いつものことですから」
「そうだな、いつものことだ」
要はそう言うとうまそうに月餅を口に運ぶ。
「そう言えば機動隊のパスでサーバーにアクセスするんだよな。機動隊の部隊長権限でどこまで入れるんだ?」
カウラにポットから番茶を注いでもらったものに手を伸ばしながら要が呟いた。
「まあある程度限定されるでしょうね……でもねえ。要ちゃん。何の為に要ちゃんがいるのよ。そういう時は……」
「おい、アイシャ。アタシを犯罪者にしたいのか?」
アイシャの明らかにハッキングしろと言う態度に苦笑いを浮かべる要。だが冷たくなった番茶を啜りながら誠はどうせ証拠が見つかるまで止めても要がやたらとアクセスする光景を予想して苦笑いを浮かべた。
「じゃあ、皆さんよろしいですか?」
「茶ぐらい飲ませろよ」
月餅を頬張りながらの要の言葉。アイシャは大きくため息をつく。
「なんだよその態度。潰すぞこのアマ」
アイシャと要の掛け合い漫才を見ながら仕方が無いと言うように笑うカウラと誠は立ち上がった。要も湯飲みを置くとそのまま静かに立ちあがる。
「神前、かたしておけよ」
要はそういい残してラーナ達と一緒に食堂を出て行った。置き去りにされた誠は厨房の当番の同僚達から冷ややかな視線を浴びながら仕方なく湯飲みを手に洗いものの棚に運んだ。
低殺傷火器(ローリーサルウェポン)26
その事件から一日経ってようやく水島の心は落ち着いてきていた。
駅前を歩いていた水島。突然彼の目の前をトイレ掃除を終えた女性が通り過ぎようとした。
ぶつかりそうになったのは最近は突然現れたアメリカ陸軍の関係者を名乗る少年のことを考えていたからだった。だがそのおかげであることに気がついた。
『まったく……あんなに汚して誰のものだと思っているのかしら……』
女性の思考とともに流れ込んだ強力な力を示す独特の引っかかり。水島の悪戯心を最大限に刺激するそんな引っかかりの魅力に水島の意思はすでに決まりきった作業のように動き出していた。
『起きろ』
それだけ念じただけだった。銀色の板のようなものが突然女性の三角巾の後ろから現れた。
「うわ!」
それが自分に眠る力によるものだとも知らずに女性はそのまま腰を抜かして倒れ込む。ふわふわと移動していた銀色の鉄板。女性の叫び声に気付いた通行人はその奇妙な物体に目をやる。しかし、彼らがそれを目にすることができたのは一瞬だった。
そんな通行人の一人、眼鏡を掛けた大学生風の男の肩に向けて回転するように飛んで行ったその板のような存在は彼の周りの空間と一緒に腕を捻じ切るとそのまま蒸発するように消えた。
しばらく腕を捻じ切られた青年は何が起きたか分からないと言うように立ち尽くしていた。次第にさっきまで彼の腕が生えていたところから血が噴出す。それを見てようやく男は気がついたように叫び声を上げた。そのまま倒れこみうめく男。
ここまで来て通行人達はそれが尋常ならざる事件であることに気付いた。慌てて駅の係員を呼びに走るサラリーマン。血を見て驚きその場にしゃがみこんで泣き始める女子高生。茫然自失という感じでただ立ち尽くしている老人。
そんな中、水島は一人起きた出来事をじっと眺めていた。そのままパニックを起こして逃げ去ろうとする群衆にまぎれて走り去らなかったのはほとんど奇跡だった。
そして先ほどの法術の発動源である女性に目をやった。まだ女性は座り込んだまま事態の重要性に気がついていない。それを見た水島の気は大きくなっていた。
「大丈夫ですか?」
水島は何も知らない通行人を装って倒れ込んでいる女性に手を差し伸べた。
「あ……ありがとうございます」
50は越えているだろう。今の出来事への驚きからさらに年上に見える彼女を助け起こしながら水島は自分が起こした出来事があまりにも大きい事実にようやく気付いていた。
そしてようやく辿り着いた駅員の姿を見ると水島は群集にまぎれて雨の町を歩き回った。
しかし知らない町。足はいつの間にか見慣れた通りに辿り着き。いつの間にか自分の部屋に辿り着いていた。
驚きと恐怖。しかし慣れない力を操った疲れはそのままコタツに入り込んだだけの水島を眠りに導くには十分なものだった。
「やっぱり……同盟も東和政府も何かを隠しているんだな……」
目覚めてコタツの上の法律書を眺めていてもそのことばかりが気になってくる。
作品名:遼州戦記 保安隊日乗 6 作家名:橋本 直



