超高らかに叫べ!
きっと明確な理由なんてないと思うぜ、というのは、冴草双子の友人(本人たちは断固として否定しているのだが)で図書委員長の弥部明先輩の言だ。彼も、やたら面白がっているように笑ったまま「インスピレーション」という単語を繰り返していた。
一週間後の放課後「準備室」集合、とそれだけ言い捨てて去って行った凛先輩の背中を見ながら、わたしはまた意味のない現実逃避に走っていた。
(……高飛びとかすれば逃げ切れるだろうか)
多分、わたしは高飛びの意味を正確に把握していない。
***
ぐちゃ。あとずさったアリスの足元で粘性のある生々しい音が響きます。足裏から伝わってきた音と感触に思わず凍りついたアリスの正面で、チェシャは声を出さずに笑いました。
「なんで、だって、────…やだぁっ……」
「アリス、アリス。僕と女王の可愛いアリス」
「わ、わたくしは、わたくしだけのものだわ…!!」
違うよ、とチェシャがきゅうっと目を細めます。
「アリスは、生まれたときから女王のもので、それで女王が僕にも分けてくれたんだよ」
だから君は僕たちの可愛いアリス。
チェシャの言葉と、恍惚と狂喜にとろりと蕩けた瞳といったら!
アリスは頬から首へ、そこからさらに下へと這うチェシャの指を感じながら意識を失いました。
(『不思議の国のアリス姫』三巻 308ページ)
今、「準備室」は二階のキャリア相談室のとなり、第三資料室にある。もともと一つだった教室を間仕切りで強引に分割したそこを、冴草先輩たちがちょうどいい大きさだといって、ついこの間使うあてのない空き教室から移動させた。第三資料室に一番近い階段は図書室を突っ切った向こうの中央階段だ。
迷路かと錯覚するくらいの本棚の海をかき分けて進んでいたら、となりのクラスの図書委員である屋中望さんに遭遇した。
「およ、前先さんだー。双子先輩から呼び出し?」
「ええまあ。屋中さんは何してんですか?」
「準備室移動したから、みんなで分担して戻ってきた本を棚に戻してるの!」
言われてみれば、屋中さんはショルダータイプに改造されたスーパーのかごみたいなものを肩にかけていて、そしてその中にはえらく統一性のない本たちが放り込まれている。
文庫、新書、単行本、変形本に大判本。
図書委員というのは思いのほか力仕事らしい。どうせ「主」も力仕事なんだろう。本持って移動するくらいだし。
よくよく話を聞いてみれば、冴草先輩たちは「準備室」を動かすたび律義に持って行った本を図書室に戻し、また違う本を持って行くらしい。そしてそのたびに図書委員が戻ってきた本を正確に棚へ戻す。
ということは、図書委員はこの広大な図書室のどこに何があるかを完璧に把握しているのか。
そういう、ささやかにすごいところを見つけるたびにわたしは心のそこから図書委員の皆さんを尊敬する。たとえばそれは今みたいに膨大な量の本をだいたいすべて把握しているところであったり、本の保護カバーを目を見張るほどのスピードで貼り進めていくところであったり、いつでも読みたい本を正確に教えてくれるところであったりした。
そもそも、うちの学校の図書委員はものすごく少ない。平均して学年に三人強、というところ。最初は各クラス二人くらいはいたはずなのに、司書の先生についていけない人が一人二人と辞めていき、夏休み前にはもう今の少数精鋭部隊になっていた。
一年生は三人。わたしの数少ない友達の形容を借りれば、「女顔」と「ロリ」と「まじめちゃん」。目の前でにこにこ笑う屋中さんは「ロリ」。申し訳ないがまさにその通りだと思う。クラスでもそんな背が高い方ではないわたしよりも背が低いし、大きくて黒めがちな瞳がくるくる動く様子はまるで小学生だ。実際間違えられたこともあるらしい。
「そういえば前先さん、冴草双子にスカウトされたんでしょ? 末永くよろしくー」
「いやいや、あの、わたしまだそれ了承したわけじゃないんで」
「やーでもなんか、あの双子に目ェつけられたんだよ?」
「逃げ切ってみせますよ、わたしは」
無理だってー、と屋中さんがえらく軽快に笑う。
「絶対なんか丸めこまれると思う」
「……それは、何となくわたしも思います」
「ほーら。それにちょっと面白そうだなーとか思ってんじゃない?」
静かに目を逸らして、口の中でだけ肯定した。
あんまりしつこく言われたからかもしれない。自分でも驚いているのだが、最初のころほど「滅びろ準備室!」という気分ではなくなっている。もちろん、自分がその管理者になるのなんてごめんだという気持ちに変わりはないのだけど。
もごもごと言い訳のようなことを一人でつぶやいていたら、肩に掛けたショルダーバッグ、じゃなくてかごを持ち直した屋中さんが小さく首をかしげた。
「前先さんてなんで敬語なの?」
「や、なんかクセで」
別に意味なんかはない。先生や先輩相手に話す口調を友達と話す口調に戻すのが面倒で、そのまま話していたらそれが染みついてしまっただけで。
昨今の悲劇漫画のせいか、若干崩れているとはいえ敬語なんて話してると過去に何かあったのかと勘繰られることは多い。それをあしらうのはちょっとめんどくさい。
案の定微妙な顔をした屋中さんに一瞬めんどくさいなあと思ったら、唐突に視界が暗くなった。
「なんすか、停電すか!?」
「前先さん反応いいねー」
「…せっかく迎えに来てあげたのに……前先、こう言うとき女の子は顔赤らめたりするもんだよ」
停電かと思ったら真先輩の手に目を覆われただけだったらしい。目のあたりがじんわりと温かくなって、頭の斜め上から聞き覚えのある声が降ってくる。
そうか、少女漫画的にはこう言うので恋に落ちるのか。
中学校、ひょっとしたら小学校のころからいろんな知り合いに恋愛相談をされたせいか、わたしは高校一年の今に至るまで恋愛らしい恋愛をしたことがない。その感覚がわからない、というのが一番正しい。
離れていった手を追いかけて視線を上向けると、呆れ顔でこっちを見る真先輩と目が合った。
「むかえ……凛先輩にパシられたんですか」
「……ジュースおごってやろうかと思ってたけどやめた」
「わーすいません! だからおごってください!」
「仲良しだねー」
ずるずると真先輩に引きずられていく。
明らかに他人事の口調で、というかほとんど棒読みで屋中さんが言う姿を背中へと送りながら、まるで捨てゼリフのように別れの挨拶をして図書室を通り抜けた。
扉から少ししたところにある階段へ向かって歩きながら、半歩分前をいく真先輩に独り言の口調でつぶやく。
「なんでわたしなんですかね」
「うん?」
「わたし、ぶっちゃけ冴草先輩方とほぼ初対面ですよ。初対面で『準備室動かしてみない?』て、なんすかそれ」
「あー…それか」
「先輩知ってます?」
聞いたら、先輩は何とも言えない不思議な顔をした。言うべきか言わないべきか迷っているような。