リングイネ
いい匂い。お腹すいたな。
もう少し眠っていたかったけれど、空腹に勝てずに目を開けた。いつもの部屋と違う。いや、角度がおかしいだけだ。そして角度がいつもと違うのは私だった。背中にかかったタオルケットごと体を起こす。
うつぶせのままで寝てしまった理由を、考えるより先にテーブルの上のお金が目に止まった。二枚? いや三万円か。その隣にちょこんとストラップが置いてあった。「泣ぐ子はいねがー」で有名なお面のストラップだった。
もうちょっと女の子らしいのにしとくんだったな。二つ手に入れた時に無理やり彼の携帯につけたものだった。いや、もう『彼』じゃないか。
窓の外から雀の鳴き声と子供の笑い声が聞こえる。もう昼か。
昨夜は結局どうしたんだっけ。
「話したいことがある」
そうメールで言われて、私はつくりかけのミートソースの量を増やした。一人で食べるつもりで作っていた。残っていたミンチを炒めて、ケチャップで少し水増しした。ちょっと味が薄かったから、コショウでごまかした。でも彼の舌ならきっと気づかない。
彼は私の部屋に来るなり「他に好きな女が出来た」と真剣な表情を見せた。予想もしていなかった、というのは嘘だ。最近、髪を撫でてくれなくなっていたから、倦怠記だと私は見て見ぬふりをしていた。
「じゃあ、私のことはもう好きじゃないのかな」
私の言葉に彼は太い眉を弱々しく垂れた。場にそぐわないけれど、かわいいと思った。そんなに器用な性格をしているなら、きっと私は好きにならなかっただろう。
「最後に」と私はせがんだ。せがみながら、ああ、こういうの映画で見たことがある、と後ろの私がつぶやいた。恋に恋する女が見て喜ぶような安っぽい映画のシーンだった。
彼は拒んだ。それはそうだ。拒むのは分かっていた。分かっていて、私はせがんで、優しい彼を押し倒した。もしかすれば返ってくるかもしれない。そんなことを願った。そんなどうしようもないことを、どうしようもないと分かっていて祈った。
けれど彼は服を着ると「ごめん」とつぶやいた。謝るぐらいならするな。するぐらいなら別れるな。そばにいてよ、そばにいてよう。「ごめん」ともう一度、彼の声が聞こえた。
私はその声をかき消したくて、耳をふさぎたくて顔を枕に押し当てた。そして、顔をあげたのが、さっきだ。
机の上のストラップを手にとろうとして、タオルケットが邪魔なのに気付いた。払いのけようと思ったけれど、その前にその匂いを嗅いだ。
「ああ、いい匂い」彼の匂いがほんの少し。この匂いも、じきに消えるんだろうな。目の奥が熱くなってきたのを感じて、タオルケットを離した。こんなの映画の見すぎだ。
起きよう。
脱いだ下着を洗濯機に投げ入れて、浴室に入ってシャワーを浴びた。お湯が流れ落ちる自分の体を確認して、最近の私は少し油断していたかもしれない、とお腹まわりを見て思った。そういえば、昨日の手は冷たかったな。それもまた理由のひとつなのかもしれない。私はシャワーの温度を少し上げた。
タオルで髪を拭きながら、今日はどうしようか、と考えた。もう戻ってこない人のことを考えても仕方ない。私は前向きに生きるんだ。
秋物がそろそろ出回る頃だろう。今年はワンピが流行りだから買っとくべきか。いや、ワンピだとミナッチとかぶっちゃうから、やめとこう。ワンピ女の二人組なんて、いかにも過ぎて嫌だ。そういえば例の新色はどんな具合なんだろう。ここ一年ぐらいはハズレばかりのブランドだから、もうそろそろ私には合わないのかもしれない。どっかいい店ないかな。会社の佐々木君が言ってた映画も気になるな。佐々木君のオススメって今んとこハズレがないんだよね、ネクタイ似合ってないけど。
とりあえず、服とコスメと映画かな。予算はどうだろう。バッグの中から財布を取り出すと、晩ご飯代ぐらいしか残っていなかった。机の上の三万円が目に止まったけれど、触ると終わってしまいそうな気がして目線を外した。えーっと、給料日前だけど口座にもうちょっと残ってる、はず。多分。
携帯でメールを一本、ハートマークを大量につけてミナッチに送った。
「今日から好きでした、付き合ってください」
テレビ雑誌の占いコーナーをチェックしながら返事を待っているとすぐに携帯が震えて知らせてくれた。
「マジで! じゃあ私も今から好きになるわ。二時にレノ前でいい?」
絵文字が全く使われてない、男らしい女友達の提案に「グッド提案」と返した。昼から、ってことはご飯を食べて出かけないといけないな。
コンロには、昨日のミートソースが置いてあった。完成はしている。冷蔵庫をあさると、使いかけのスパゲティがあった。他には使いかけの野菜とタッパーに入ったキムチ。
私、キムチはあんまり食べないんだけどな。
「いいじゃん、オレ用に置いといてよ」彼の好物だった。もうこれも処分しないとな。
ゴミ袋代わりのビニール袋を用意して、キムチをうつそうとすると、脳裏にお母さんの「もったいない!」がよぎった。
仕方ない、食べるか。辛いの苦手なんだけどな。タッパーに入ったキムチを皿に盛ると、量は一食分だった。手でひとつまみ食べてみると、悪くない味だった。これならどうにかなるか。
鍋にお湯を沸かして、沸騰したら塩を適当にひとつまみ、ふたつまみ入れる。更にボゴボゴと沸騰が激しくなったのを確認して、スパゲティを一束分、ちらしながら入れる。
アラームをセットして、テレビ雑誌をチェックする。今夜は恋愛映画をするみたい。映画紹介を読んだかぎりじゃ、あんまり趣味じゃないな。
「ピピピピピピピ」
アラームの合図で、麺をザルにうつした。パスタすくいも一応あるけど、使い方がよく分からないし、なによりめんどくさい。
換気扇をつける。低いモーター音が静かな台所に響いた。
フライパンを火にかけてオリーブ油を少し入れた。手のひらを近づけて熱くなったら、麺を入れる。手早く油と麺をからめた。そこにミートソースを半分ぐらい入れた。固まりかけのミートソースが温められてほぐれていく。また手早く麺にからめた。
お店だと麺の上にミートソースが上品に盛られて出てくるけど、あれだと混ぜる時にソースがハネそうで怖いのよね。「混ぜてください」って言ったら混ぜた状態で出してくれるお店ってないのかな。見た目の問題なんだろうけど。
出来上がったスパゲティを大皿に盛りつけて、テーブルに並べた。キムチと麦茶も忘れない。音が無いのが寂しかったので、テレビもつけた。お笑い芸人達が喜劇を演じていた。私が子供の頃から変わらない『大阪名物』を見て、少しホッとする。
「いただきます」
つぶやきながら、フォークにスパゲティをくるくると巻きつけて、口に入れた。うん、おいしい。ちょっと味が薄い気もしたけど耐えられなくもない。でも、二口、三口と食べると、少しずつ薄味が気になってきた。どうしよう。
あ、キムチを食べれば、辛さでちょうどいいかもしれない。
私は一度、麦茶で口の中を流してから、フォークでキムチを刺して口に入れた。
「ふぐっ!」なんだこれ!
もう少し眠っていたかったけれど、空腹に勝てずに目を開けた。いつもの部屋と違う。いや、角度がおかしいだけだ。そして角度がいつもと違うのは私だった。背中にかかったタオルケットごと体を起こす。
うつぶせのままで寝てしまった理由を、考えるより先にテーブルの上のお金が目に止まった。二枚? いや三万円か。その隣にちょこんとストラップが置いてあった。「泣ぐ子はいねがー」で有名なお面のストラップだった。
もうちょっと女の子らしいのにしとくんだったな。二つ手に入れた時に無理やり彼の携帯につけたものだった。いや、もう『彼』じゃないか。
窓の外から雀の鳴き声と子供の笑い声が聞こえる。もう昼か。
昨夜は結局どうしたんだっけ。
「話したいことがある」
そうメールで言われて、私はつくりかけのミートソースの量を増やした。一人で食べるつもりで作っていた。残っていたミンチを炒めて、ケチャップで少し水増しした。ちょっと味が薄かったから、コショウでごまかした。でも彼の舌ならきっと気づかない。
彼は私の部屋に来るなり「他に好きな女が出来た」と真剣な表情を見せた。予想もしていなかった、というのは嘘だ。最近、髪を撫でてくれなくなっていたから、倦怠記だと私は見て見ぬふりをしていた。
「じゃあ、私のことはもう好きじゃないのかな」
私の言葉に彼は太い眉を弱々しく垂れた。場にそぐわないけれど、かわいいと思った。そんなに器用な性格をしているなら、きっと私は好きにならなかっただろう。
「最後に」と私はせがんだ。せがみながら、ああ、こういうの映画で見たことがある、と後ろの私がつぶやいた。恋に恋する女が見て喜ぶような安っぽい映画のシーンだった。
彼は拒んだ。それはそうだ。拒むのは分かっていた。分かっていて、私はせがんで、優しい彼を押し倒した。もしかすれば返ってくるかもしれない。そんなことを願った。そんなどうしようもないことを、どうしようもないと分かっていて祈った。
けれど彼は服を着ると「ごめん」とつぶやいた。謝るぐらいならするな。するぐらいなら別れるな。そばにいてよ、そばにいてよう。「ごめん」ともう一度、彼の声が聞こえた。
私はその声をかき消したくて、耳をふさぎたくて顔を枕に押し当てた。そして、顔をあげたのが、さっきだ。
机の上のストラップを手にとろうとして、タオルケットが邪魔なのに気付いた。払いのけようと思ったけれど、その前にその匂いを嗅いだ。
「ああ、いい匂い」彼の匂いがほんの少し。この匂いも、じきに消えるんだろうな。目の奥が熱くなってきたのを感じて、タオルケットを離した。こんなの映画の見すぎだ。
起きよう。
脱いだ下着を洗濯機に投げ入れて、浴室に入ってシャワーを浴びた。お湯が流れ落ちる自分の体を確認して、最近の私は少し油断していたかもしれない、とお腹まわりを見て思った。そういえば、昨日の手は冷たかったな。それもまた理由のひとつなのかもしれない。私はシャワーの温度を少し上げた。
タオルで髪を拭きながら、今日はどうしようか、と考えた。もう戻ってこない人のことを考えても仕方ない。私は前向きに生きるんだ。
秋物がそろそろ出回る頃だろう。今年はワンピが流行りだから買っとくべきか。いや、ワンピだとミナッチとかぶっちゃうから、やめとこう。ワンピ女の二人組なんて、いかにも過ぎて嫌だ。そういえば例の新色はどんな具合なんだろう。ここ一年ぐらいはハズレばかりのブランドだから、もうそろそろ私には合わないのかもしれない。どっかいい店ないかな。会社の佐々木君が言ってた映画も気になるな。佐々木君のオススメって今んとこハズレがないんだよね、ネクタイ似合ってないけど。
とりあえず、服とコスメと映画かな。予算はどうだろう。バッグの中から財布を取り出すと、晩ご飯代ぐらいしか残っていなかった。机の上の三万円が目に止まったけれど、触ると終わってしまいそうな気がして目線を外した。えーっと、給料日前だけど口座にもうちょっと残ってる、はず。多分。
携帯でメールを一本、ハートマークを大量につけてミナッチに送った。
「今日から好きでした、付き合ってください」
テレビ雑誌の占いコーナーをチェックしながら返事を待っているとすぐに携帯が震えて知らせてくれた。
「マジで! じゃあ私も今から好きになるわ。二時にレノ前でいい?」
絵文字が全く使われてない、男らしい女友達の提案に「グッド提案」と返した。昼から、ってことはご飯を食べて出かけないといけないな。
コンロには、昨日のミートソースが置いてあった。完成はしている。冷蔵庫をあさると、使いかけのスパゲティがあった。他には使いかけの野菜とタッパーに入ったキムチ。
私、キムチはあんまり食べないんだけどな。
「いいじゃん、オレ用に置いといてよ」彼の好物だった。もうこれも処分しないとな。
ゴミ袋代わりのビニール袋を用意して、キムチをうつそうとすると、脳裏にお母さんの「もったいない!」がよぎった。
仕方ない、食べるか。辛いの苦手なんだけどな。タッパーに入ったキムチを皿に盛ると、量は一食分だった。手でひとつまみ食べてみると、悪くない味だった。これならどうにかなるか。
鍋にお湯を沸かして、沸騰したら塩を適当にひとつまみ、ふたつまみ入れる。更にボゴボゴと沸騰が激しくなったのを確認して、スパゲティを一束分、ちらしながら入れる。
アラームをセットして、テレビ雑誌をチェックする。今夜は恋愛映画をするみたい。映画紹介を読んだかぎりじゃ、あんまり趣味じゃないな。
「ピピピピピピピ」
アラームの合図で、麺をザルにうつした。パスタすくいも一応あるけど、使い方がよく分からないし、なによりめんどくさい。
換気扇をつける。低いモーター音が静かな台所に響いた。
フライパンを火にかけてオリーブ油を少し入れた。手のひらを近づけて熱くなったら、麺を入れる。手早く油と麺をからめた。そこにミートソースを半分ぐらい入れた。固まりかけのミートソースが温められてほぐれていく。また手早く麺にからめた。
お店だと麺の上にミートソースが上品に盛られて出てくるけど、あれだと混ぜる時にソースがハネそうで怖いのよね。「混ぜてください」って言ったら混ぜた状態で出してくれるお店ってないのかな。見た目の問題なんだろうけど。
出来上がったスパゲティを大皿に盛りつけて、テーブルに並べた。キムチと麦茶も忘れない。音が無いのが寂しかったので、テレビもつけた。お笑い芸人達が喜劇を演じていた。私が子供の頃から変わらない『大阪名物』を見て、少しホッとする。
「いただきます」
つぶやきながら、フォークにスパゲティをくるくると巻きつけて、口に入れた。うん、おいしい。ちょっと味が薄い気もしたけど耐えられなくもない。でも、二口、三口と食べると、少しずつ薄味が気になってきた。どうしよう。
あ、キムチを食べれば、辛さでちょうどいいかもしれない。
私は一度、麦茶で口の中を流してから、フォークでキムチを刺して口に入れた。
「ふぐっ!」なんだこれ!