深海ネット 前編
1.日課
別に、一人が寂しいわけじゃない。最期くらい誰かと一緒に、なんて女々しい考えなど持っていない。その辺の寂しがり屋と一緒にされるのは癪にさわる。ただ俺が思ったのは、こういう方法が一番便利だということ。そして、俺がそこに求めたのは、「道具」と「確実さ」。ただそれだけ。それ以外のなにものでもない。
だから、俺はレイカを選んだ。レイカは条件にぴったりだった。
《河野明様へ
メールありがとうございます。
レイカです。
「心中掲示板」を見て私の募集に応じてくれたのは、今のところ、明さんの他に二名います。男性の方と、女性の方です。明さんを含めると、計四人です。男性の方が、車を用意してくれるようです。場所は今相談中ですが、都内で考えています。時期は、早いうちになんとか……。
詳しいことはまたすぐ連絡します。
河野さんも本気の方だと信じています。》
昨夜、俺が「心中掲示板」を見たとき、一番上にあったのがレイカの書き込みだった。本気の方募集、というタイトル。一緒に自殺する人間を募っていた。睡眠薬は用意できます、とのこと。実にシンプルで、無駄のない文章だった。書き込みの最後の行に、メールアドレスが書かれてあった。俺は迷わず参加の意思を送った。
死ぬにも意外と、手間とエネルギーが必要なものである。俺みたいな人間には、特に。飛び降りるだけの衝動も無ければ、手首を切る勇気も無い。苦しみながら死ぬ首吊りなんか、もっての他だ。
そんな中、俺がネットで見つけたのは練炭自殺と呼ばれる方法。車の中で練炭を炊いて、睡眠薬を飲んで寝る。そして時間が経てば、人間はピンク色の死体となっているという。この一連の流れは、実に楽そうだ。ただ寝てればいいだけなのだから。でも、一人で決行するには何かと準備に手間がかかる。何事もできるだけ楽に、が俺のモットー。死ぬための準備や踏ん切りなんて面倒なだけだ。
だから、この顔も素性も知らないレイカという女に身を委ねてみることにした。レイカは睡眠薬を持っている。おかげで、俺は薬を調達する手間が省ける。そして、このレイカからのメールによると、車の用意からも逃れられるようだ。練炭自殺において、睡眠薬と車は必要不可欠らしい。だが、簡単に手に入るものでもない。俺はそんなもの用意するつもりは無かった。だからその二つが自動的に手に入るのは、非常に好都合だ。練炭や七輪なんかは、当日みんなで買えばいいのだから。
とにかく俺は、レイカから連絡を待つだけでいい。当日の動きなんかは、レイカとその仲間たちが決めてくれるのだろう。
まさに理想的な方法だ。これで、全てを楽に終わることができる。
季節はいつの間にか、秋になっていたらしい。そんなこと、全く気づかなかった。まあ、気づかなくて当然。ここしばらく外の空気に触れたことも、部屋のカーテンを開けることも無かったのだ。壁にかかってあるカレンダーは、まだ八月のまま。言われてみれば確かに、青々とした海の色が眩しい浜辺のイラストには、もう見飽きている。
「今日からもう十月だしな」
携帯電話の画面で日付を確認して、俺はキーボードを叩いた。今日が何月何日であるかなど全く気にしなくていい生活を送っていると、日付の感覚が無くなるものだ。返事を待つ間、カレンダーを一気に二枚めくろうとしたが、大きく斜めにやぶけてしまった。触れた指先が埃っぽくて、着ていたスウェットに指を擦りつける。カレンダーは、もうそのままにしておくことにした。真っ二つになった浜辺のイラストの下から、銀杏の樹が覗いている。
「こっちはもう寒いんだよ。夜とかさ」
《いち太郎》が言う。新聞やテレビから遠ざかっている俺は、世の中の動きなんかをいつもいち太郎に教えてもらっている気がする。もちろん、教えてもらっている、なんて素振りは微塵も見せず、いつも話を合わせているのだが。
「やっぱり北国は違うんだな」
「そろそろストーブが必要だからね」
いち太郎はそう言って、ストーブで温まる顔文字を添えてきた。こいつは男のくせに、やたらと顔文字を多用する。しかも、そのバリエーションの多さは、半端じゃない。どこかのサイトでダウンロードしたらしく、わざわざそのサイトのアドレスまで教えてくれたこともあったが、俺は結局一度も開いていない。顔文字によって文章がガキっぽくなるのは嫌だった。
「信じられない!アタシはまだ半袖でもいけるよ」
確か、《ミミ》は九州に住んでいるはずだ。北海道のいち太郎とは、同じ日本でも感じる気候が全く違って当然だろう。
「あはは。ミミもこっち来てみなよ。ビックリするよ」
「お金無いからムリだもんっ」
「高校生ならバイトくらいできるでしょ?」
「えー。遊ぶヒマなくなるじゃん」
いち太郎とミミの会話を眺めながら、俺はこの空間から抜けるタイミングを見計らっていた。画面右下の時計は、もうすぐ日付が変わることを告げている。そろそろ、タイムリミットだ。
「じゃあ、そろそろ俺は落ちるわ」
いつものように、この部屋から退室することを告げる。
「お、社長は明日も仕事か」
「早く寝なきゃだね!」
「いつも落ちるの早くて悪いな」
「社長は社会人なんだから仕方ないよ。僕ら学生と違ってさ」
「バイバーイ!社長」
退室ボタンをクリックし、二人との会話が終わる。
毎日の日課が、終わる。
俺は《社長》と呼ばれている。俺が自ら《社長》と名乗っているのだ。いち太郎もミミも、それ以外に俺の呼び名を知らない。
初めてこのチャットルームに入った日、名前を入力する欄を目の前にして、しばらく手を止めていたのを覚えている。別に本名を入れればすむはずのことだったが、こんなバーチャルな世界でまで「河野明」を引きずるのは、正直ごめんだった。どうせなら、一生呼ばれることのない呼び名を使おう。そう思って入力したのが、《社長》だった。
そしてその日、チャットルームの中にはいち太郎だけがいた。
「お初です」
にっこりと微笑む顔文字を添えて、俺に話しかけてきた。
「はじめまして」
「《社長》って、ホンモノの社長さん?」
早速そう来たか、と思う。一瞬「そうだよ」と言ってやろうかと考えたが、正直に否定した。だいたい、本当に社長をやっている奴は、わざわざチャットなんかしないのだろう。
その後も、俺はいち太郎の無邪気な質問攻撃にあった。年齢、職業、住んでいるところから始まり、好きな女のタイプやパソコン歴など。チャットは話している相手の顔が見えない。だから、相手の情報を聞かない限り、そいつがどんな奴なのか想像できないのだろう。面倒ではあったが、俺はいち太郎の質問に全て答えた。それが事実かどうかは、別として。
それから十分程してやってきたのが、ミミだった。ああまた同じような質疑応答を繰り返すのか、とうんざりしていたら、すぐにいち太郎が俺のことを紹介してくれた。千葉県在住、二十六歳の会社員だ、と。