精霊の声が聞こえるか 1
俺は音楽が好きだ。長ったらしく作文を書くよりも、音を奏でる方がよっぽど自分の気持ちを素直に表現できる。きっと、人にはそれぞれ「自分を表現するのに最も適した方法」というのが存在していて、俺にとってのそれが音楽なのだろう。
――だからって、これはちょっと…。
音楽は感情を表す。この考え方に対してはさまざまな意見があるが、俺は本気でそう信じている。しかし、そんな俺でさえ『音楽から人の心が読める』とは冗談でも言えない。そう、言えないのだ。
『不安だ、不安だ。僕の音楽は、認めてもらえるだろうか? 不安だ。不安だ!』
突然だが、今俺は、一人でコンサートに来ている。前から聞いてみたいと思っていた日本人バイオリニストのコンサートだ。観客の中で私語をしている人などもちろんおらず、楽器から流れる安定感のある美しい音だけがホールに響いている。
『あぁ、いつものように弾けない。舞台上はひとり、不安だ。助けて、不安だ!』
では先ほどから俺の耳に響いているこの“声”は何なのか。こういった経験は、実は今回が初めてではない。少し前から、急に、誰のともわからない声を何度も聞くようになった。しかし、未だにこの症状の原因はわからない。ただ、俺なりにいくつかのヒントを見つけてみた。
ヒント一:この声は俺にしか聞こえていない
ヒント二:声の主は、自分の声を聞かれているとは思っていない
ここまでではまださっぱりだ。ヒントというほどでもないかもしれない。しかしもうひとつ、唯一手掛かりとなりそうな特徴がある。
ヒント三:謎の声は必ず、声の主の奏でる音と共にある
初めて聞こえるはずのない他人の声を聞いたのは、一か月前。入学式で絹川高校オーケストラ部の歓迎演奏を聴いていた時だった。フルートのソロに入ったと同時に、フルートを吹いている先輩の声が俺の耳に届いた。次に声を聞いたのは、部活動紹介でのジャズ部の演奏だっただろうか。母のピアノ教室が開いた発表会では、小学校一年生の女の子の声まで聞いてしまった。そして今日はだいぶ年の離れたプロのバイオリニストの声を聞いている。年齢も性別も、演奏形態もジャンルも、何もかもがばらばらで、共通点は“音楽”という非常にあいまいで広いものしか見つけられない。
――俺が音楽を妄信しているからこんなことになったのだろうか
慣れとは怖いもので、いつの間にか俺は声が聞こえることには疑問を感じなくなり、なぜ聞こえるかのみを考えるようになっていた。
コンサートは終演し、俺は気分よく帰路についた。声が聞こえるというハプニングはあったものの、期待していた通りに素晴らしいコンサートだった。しかし、俺の気分がよかったのはそのせいだけではなかった。
「ただいま」
「サク、お帰り。今日のコンサート、どうだった?」
家の中に入ると、リビングから母さんが出てきた。
「かなりよかった。さすが母さんの一押しだね」
「でしょ!」
母さんは子供のように笑顔を見せていた。どこか幼い雰囲気のある人だが、この人の弾くピアノは本当に美しい。そして、ただ美しいだけでなく、高校生になったばかりの俺では形容できないほどに奥深い音を奏でる。きっと母さんならプロとしても通用したのだろうが、あえてピアノ教室を開くことを選んだ。それもまた母さんらしい。
「あ、そうそう。あれはとってきたの?」
二階の自分の部屋へ行こうとしていた俺を、母さんは引き留めた。
「うん、ほらこれ」
俺は、一段目の階段に足をかけた状態で、細長いケースを母さんに見えるように高く上げた。
「ちょっと今から弾いてみるよ」
黒く頑丈なこのケースは、チェロの弓をしまうためのものだ。弓に張られている毛は切れたり抜けたりするので、定期的なメンテナンスとして弓の張り替えが必要となる。ちょうど俺の弓も張り替えに出しており、コンサートに行く前に受け取ってきたのだ。俺の機嫌がよかった一番の原因はこれだ。
俺は自分の部屋に入り、チェロを運ぶことにした。この家に一つだけある防音の部屋に移動するためだ。いったん弓を置き、他の荷物も順番におろす。そしてチェロの入った硬いケースに手をかけ、さっき置いた弓をもう一度手に取ろうとした。
「あれ?」
しかし手に取ろうとした弓のケースは、なぜか開いていた。しかも中は空っぽだ。
――楽器屋を出る時にちゃんと確認したのに……。
さすがに少し動揺した。しかし、それ以上に動揺する出来事が起こった。
「探しているのは、私のことか?」
俺の部屋に響いたのは、かわいらしい高い声。一応俺の家族構成を先に伝えておくが、父、母、兄が一人、そして俺の四人暮らし。聞こえるはずもない少女の声が、俺の耳にははっきりと聞こえた。今は音楽もなっていないのに。
数秒硬直したあと、恐る恐る声のする方を振り返った。
――あぁ、そうか。人の心が読めるようになったのも、俺が夢の世界にいるからなのかもしれないな
夢の世界というか二次元というか。俺が振り向いた先にいた少女は、現実とは信じがたい容姿をしていた。
「何を固まっている?」
そこにいるのがさも当たり前のことのように堂々と低い棚に腰かけている少女は、俺の弓を持ってこちらを見ていた。癖なのか、とても長くきれいな銀髪の髪の毛を片方の手で弄んでいる。大した高さではない棚から床へ、少女がひょいととんだ。その時、布を広げるような聞きなれない音がした。髪がこすれた音かとも思ったが、俺はすぐに音の正体に気づいた。
「とりあえず、初めまして。だな、詩(うた)島(じま)サク」
俺の方に近づいてきた少女には、白い羽がついていた。先ほどの音もこの音だったのだ。
「は、初めまして」
動揺と混乱で引きつった表情を、無理やり作り笑顔にした。そして俺は、夢の世界だと割り切って、無表情で自分の前に立っている少女と会話をする決意をした。
「君は、誰?」
「私の名前はシルク。誰、と聞かれると難しいが、一言でいえば“チェロの弓”だな」
シルクと名乗ったその少女は、業務連絡をするように淡々と話していた。
「ルーフ、という単語がわかるか?」
「屋根? あー、ドイツ語なら声とか?」
「ドイツ語か、よく知っているな。でもハズレだ」
急に会話がクイズ形式になったことには驚いたが、意外にも頭は冷静にはたらいているらしい。
「ルーフというのは、私のような楽器に宿る精霊の総称だ」
「……」
クイズの問題としては最悪だ。回答者が答えを知っている可能性は、どう考えてもゼロなのだから。
――いつになればこの夢から解放されるのだろうか。
俺はだんだん憂鬱になってきた。高校生にもなって、潜在意識の中とはいえこんな世界を構築してしまったのだ。なんて子供っぽい頭をしているのだろう。
「これは夢なんかじゃないからな」
シルクは俺の心を読んだかのように、話を続けてきた。これが夢でなければ、さらに俺は困る。俺の十五年間でつちかった常識を軽く覆さないでくれ。
ドタドタドタドタ……
俺がため息をつくと同時に、階段を誰かが駆け上がる音が聞こえ始めた。
「まずい!」
「?」
――だからって、これはちょっと…。
音楽は感情を表す。この考え方に対してはさまざまな意見があるが、俺は本気でそう信じている。しかし、そんな俺でさえ『音楽から人の心が読める』とは冗談でも言えない。そう、言えないのだ。
『不安だ、不安だ。僕の音楽は、認めてもらえるだろうか? 不安だ。不安だ!』
突然だが、今俺は、一人でコンサートに来ている。前から聞いてみたいと思っていた日本人バイオリニストのコンサートだ。観客の中で私語をしている人などもちろんおらず、楽器から流れる安定感のある美しい音だけがホールに響いている。
『あぁ、いつものように弾けない。舞台上はひとり、不安だ。助けて、不安だ!』
では先ほどから俺の耳に響いているこの“声”は何なのか。こういった経験は、実は今回が初めてではない。少し前から、急に、誰のともわからない声を何度も聞くようになった。しかし、未だにこの症状の原因はわからない。ただ、俺なりにいくつかのヒントを見つけてみた。
ヒント一:この声は俺にしか聞こえていない
ヒント二:声の主は、自分の声を聞かれているとは思っていない
ここまでではまださっぱりだ。ヒントというほどでもないかもしれない。しかしもうひとつ、唯一手掛かりとなりそうな特徴がある。
ヒント三:謎の声は必ず、声の主の奏でる音と共にある
初めて聞こえるはずのない他人の声を聞いたのは、一か月前。入学式で絹川高校オーケストラ部の歓迎演奏を聴いていた時だった。フルートのソロに入ったと同時に、フルートを吹いている先輩の声が俺の耳に届いた。次に声を聞いたのは、部活動紹介でのジャズ部の演奏だっただろうか。母のピアノ教室が開いた発表会では、小学校一年生の女の子の声まで聞いてしまった。そして今日はだいぶ年の離れたプロのバイオリニストの声を聞いている。年齢も性別も、演奏形態もジャンルも、何もかもがばらばらで、共通点は“音楽”という非常にあいまいで広いものしか見つけられない。
――俺が音楽を妄信しているからこんなことになったのだろうか
慣れとは怖いもので、いつの間にか俺は声が聞こえることには疑問を感じなくなり、なぜ聞こえるかのみを考えるようになっていた。
コンサートは終演し、俺は気分よく帰路についた。声が聞こえるというハプニングはあったものの、期待していた通りに素晴らしいコンサートだった。しかし、俺の気分がよかったのはそのせいだけではなかった。
「ただいま」
「サク、お帰り。今日のコンサート、どうだった?」
家の中に入ると、リビングから母さんが出てきた。
「かなりよかった。さすが母さんの一押しだね」
「でしょ!」
母さんは子供のように笑顔を見せていた。どこか幼い雰囲気のある人だが、この人の弾くピアノは本当に美しい。そして、ただ美しいだけでなく、高校生になったばかりの俺では形容できないほどに奥深い音を奏でる。きっと母さんならプロとしても通用したのだろうが、あえてピアノ教室を開くことを選んだ。それもまた母さんらしい。
「あ、そうそう。あれはとってきたの?」
二階の自分の部屋へ行こうとしていた俺を、母さんは引き留めた。
「うん、ほらこれ」
俺は、一段目の階段に足をかけた状態で、細長いケースを母さんに見えるように高く上げた。
「ちょっと今から弾いてみるよ」
黒く頑丈なこのケースは、チェロの弓をしまうためのものだ。弓に張られている毛は切れたり抜けたりするので、定期的なメンテナンスとして弓の張り替えが必要となる。ちょうど俺の弓も張り替えに出しており、コンサートに行く前に受け取ってきたのだ。俺の機嫌がよかった一番の原因はこれだ。
俺は自分の部屋に入り、チェロを運ぶことにした。この家に一つだけある防音の部屋に移動するためだ。いったん弓を置き、他の荷物も順番におろす。そしてチェロの入った硬いケースに手をかけ、さっき置いた弓をもう一度手に取ろうとした。
「あれ?」
しかし手に取ろうとした弓のケースは、なぜか開いていた。しかも中は空っぽだ。
――楽器屋を出る時にちゃんと確認したのに……。
さすがに少し動揺した。しかし、それ以上に動揺する出来事が起こった。
「探しているのは、私のことか?」
俺の部屋に響いたのは、かわいらしい高い声。一応俺の家族構成を先に伝えておくが、父、母、兄が一人、そして俺の四人暮らし。聞こえるはずもない少女の声が、俺の耳にははっきりと聞こえた。今は音楽もなっていないのに。
数秒硬直したあと、恐る恐る声のする方を振り返った。
――あぁ、そうか。人の心が読めるようになったのも、俺が夢の世界にいるからなのかもしれないな
夢の世界というか二次元というか。俺が振り向いた先にいた少女は、現実とは信じがたい容姿をしていた。
「何を固まっている?」
そこにいるのがさも当たり前のことのように堂々と低い棚に腰かけている少女は、俺の弓を持ってこちらを見ていた。癖なのか、とても長くきれいな銀髪の髪の毛を片方の手で弄んでいる。大した高さではない棚から床へ、少女がひょいととんだ。その時、布を広げるような聞きなれない音がした。髪がこすれた音かとも思ったが、俺はすぐに音の正体に気づいた。
「とりあえず、初めまして。だな、詩(うた)島(じま)サク」
俺の方に近づいてきた少女には、白い羽がついていた。先ほどの音もこの音だったのだ。
「は、初めまして」
動揺と混乱で引きつった表情を、無理やり作り笑顔にした。そして俺は、夢の世界だと割り切って、無表情で自分の前に立っている少女と会話をする決意をした。
「君は、誰?」
「私の名前はシルク。誰、と聞かれると難しいが、一言でいえば“チェロの弓”だな」
シルクと名乗ったその少女は、業務連絡をするように淡々と話していた。
「ルーフ、という単語がわかるか?」
「屋根? あー、ドイツ語なら声とか?」
「ドイツ語か、よく知っているな。でもハズレだ」
急に会話がクイズ形式になったことには驚いたが、意外にも頭は冷静にはたらいているらしい。
「ルーフというのは、私のような楽器に宿る精霊の総称だ」
「……」
クイズの問題としては最悪だ。回答者が答えを知っている可能性は、どう考えてもゼロなのだから。
――いつになればこの夢から解放されるのだろうか。
俺はだんだん憂鬱になってきた。高校生にもなって、潜在意識の中とはいえこんな世界を構築してしまったのだ。なんて子供っぽい頭をしているのだろう。
「これは夢なんかじゃないからな」
シルクは俺の心を読んだかのように、話を続けてきた。これが夢でなければ、さらに俺は困る。俺の十五年間でつちかった常識を軽く覆さないでくれ。
ドタドタドタドタ……
俺がため息をつくと同時に、階段を誰かが駆け上がる音が聞こえ始めた。
「まずい!」
「?」
作品名:精霊の声が聞こえるか 1 作家名:リクノ