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「月傾く淡海」   第一章 最も旧き一族

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見渡す限り、そこは金色の海だった。
 山裾の緩い傾斜を利用して作られた棚田には、一面に黄金の稲穂が実る。涼やかな秋の風が吹き抜けるたび、重そうな実をつけた緑の茎はざわざわと揺れた。
広い稲の海には、それを区切るようにして縦横に紅い帯が走っている。ちょうど、盛りを迎えた彼岸花だ。
 金と紅と緑の織りなす鮮やかな色彩の海の中を、一人の娘が渡っていた。
 背の高い娘は、短めの裳裾を捌きながら早足で歩く。向かいからやってきた農夫が娘に気づき、頭に乗せていた被りものを取った。
「これは、姫さま」
 農夫は肩に担いでいた鋤を下ろし、愛想よく娘に笑いかけた。
「このようなところでお見かけできるとは。今日は、よき日ですな」
 農夫の青年は屈託なく言った。
「……随分見事に実ったわね。美しいものだわ」
 娘は、黄金の海を見回しながら呟く。
「そうですなあ。これも全て、一言主さまのおかげでありましょう。まこと、この地は古くから護られております」
「そうだといいけど」
 娘は、風になびく長い髪を押さえながら答えた。
 つやのあるその髪は、少し茶色味が強く褐色に近い。この国では珍しい色合いだったが、それは娘によく似合っていた。
「無論、香々瀬王さまのお導きあってのことですが」
 そっけない娘の態度に、農夫は慌てたように付け足した。それを聞いて、娘は思わず苦笑する。
「それこそ、どうだか分からないわ」
 娘は突き放すように言った。農夫は、これ以上この話題に踏み込まぬ方がよいと判断し、さりげなく矛先を変える。
「……ところで倭文(しどり)さま、今から葛城山へ行かれるので?」
「ええ」
 娘--倭文は、棚田の彼方に鎮座する山を見据えながら答えた。
 鋭角的にそびえるこの葛城山は、この地の国見の山であり、古より霊畏を持つ神奈備として畏れられてきた。その為、族人であってもおいそれと近づく者はない。
「お気をつけくださまし。今日はよい天気ですが、秋はあっという間に日が落ちてしまい
ますからな」
「そうね……」
 倭文は、澄み切った青空を見上げた。
「でも、私には無用の忠告だわ」
「はあ、確かに……」
 倭文の帯から下がった平剣にちらりと目をやり、農夫はきまり悪そうに言葉を濁した。「今度、香々瀬(かがせ)にでもあったなら、そう言ってやることね」
 そう言うと、倭文は再び稲の海の中を歩き始める。
 その颯爽とした後ろ姿を見送り、農夫は深々と頭を垂れた。
「まったく、大した御方だ。ああ、あの方が首長(おびと)になってくだされば、本当に
よかったのに。何故……」


 葛城の里に降り注ぐ秋の陽光も、神山の奥深くまでは届かない。
 踏み入るものを惑わせるように複雑に入り組んだ暗い林の中を、倭文はためらうことなく歩いていた。
 代わり映えしない景色の中を、どれくらい登っただろう……不意に、周囲の温度が変わったのに気付く。
 ひんやりとした、冷気。自然のものと違い、そこには、明らかに拒絶の意志がある。
(……結界に触れたかな……)
 倭文がそう判断した時。
 空気を切る鋭い声が、突如林の中に響き渡った。
「--俺の領域を侵そうとする者は誰だ?」
 敵意に満ちた神気が木々を震わせる。呼応するように、僅かに色づいた木の葉が空に舞った。
 並の者なら、その声を聞いただけで、腰を抜かすか逃げ帰っただろう。
 しかし、倭文は平然としたまま上を向いて言った。
「私よ。--わかっているくせに」
 落ち葉の隙間に目を凝らすと、高い木の枝に腰掛けている人影が見えた。
 臆することなく、倭文は更に呼びかける。
「降りてきなさいよ--葛城の一言主(ひとことぬし)!!」
 急に、周囲を支配していた緊迫感が解けた。
 ザッと激しい音がして、人影が枝から飛び降りる。
 反射的に目を伏せた倭文の前に、声の主はその異様な姿を見せた。
「……我は悪事(まがごと)も一言、善事(よごと)も一言にいいのべる、言離(ことさか)の神。--葛城の一言主の大神なるぞ」
 そう泰然と言い放つと、「一言主」は左手に持った長矛を地面に突き刺した。
 現し身(うつしみ)の神である一言主は、人の形をしていた。ほっそりとしたその姿は、少年のようでもあり、青年のようでもある。
 彼は、高い歯のついた下駄に、膝下で切った短い黒袴を履いて立っていた。襟足のあたりで無造作に切られた髪は、紫かがった銀色をしている。

「いつもいつもそうやって遊ばないでよ。他にここまでこれる人間がいるわけないじゃない」
「……まあ、お前以外のやつが踏み込んだら、その場で殺してやるよなあ」
 言いながら、にたあ、と赤い唇を歪ませて一言主は笑った。
 彼は顔の上半分を、文様の入った仮面で覆っている。その表情を伺い知ることが出来るのは、ただ口元からだけだった。
「長い間、そういうことばっかりしてたから、ここに誰も寄りつかなくなったのよ」
「別に人間と交わりたいと思ったことはないんでね」
 にべもなく一言主は言う。
(まったく、これが葛城一族の「護り神」っていうんだから……)
 倭文はそっと、ため息をついた。
「なんなら、香々瀬の奴でも送り込んでみるかい?」
「……私は弟を殺したいわけじゃないわ」
「でも、好きじゃないだろう? ああ、嫌いっていうのか、そういうのは」
 一言主は、長矛を肩の上に担ぎ上げて言った。
「巫女姫に生まれなかったっていう理由だけを振りかざして、お前が葛城の首長になるのを邪魔した奴だぜ? 何故俺にやらせない? ……それとも」
 一言主は、倭文の持つ平剣を指さした。
「自分でやりたいって?」
「……別に、首長を『譲った』わけじゃないわ」
「へえ?」
「私は、『なりたくなかった』のよ」
「なんで」
「めんどうだから、王なんて」
「……いいねえ!!」
 一言主は、手を打って喜んだ。
「そういうところ、すっげー気に入ってるんだ」
 楽しそうに笑い、一言主はどんどん砕けた口調になっていった。
「だから、気が合うと思わねえ? まあ大体さ、本当に力を持った巫女なんて、葛城だけじゃない、もうどこの一族にも生まれないんだ。時代が必要としないんだよ」
「……そうかもね」
 そう答えながら、しかし倭文は矛盾を感じた。
 だって、「神」はいる。今こうして、目の前に。
 ……まあ実のところ、未だにその実感などないのだが。
「ねえ! 別に、そんなこと言いにきたわけじゃないんだけど」
「ふうん。じゃ、何しに来たんだよ。俺に会いたかったの?」
 一言主は、嘲弄するような口調で聞く。
「まあ、確かにそうね」
「うそつき。倭文は、嘘つきだ」
 拗ねたような一言主の物言いを、倭文はとりあえず無視することにした。こんな所でひっかかっていては、話が進まない。
「いいから、聞きなさいよ。……都で、大王が死んだのよ」
「……大王? どの大王が?」
「若雀(わかさざき)の大王よ」
「若雀……? --ああ。二十五代目の奴か……」
 口元に手をやり、一言主は何か考えを巡らしながら呟いた。
「そいつ……多分……あと何百年かしたら、『武烈』って諡号される奴だなあ……。俺、結構気に入ってるんだ、その名前……」
「『しごう』?」