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白線の内側まで

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通過電車に巻き込まれて、舞い散るもみじが視界を覆った。
 あたしはようやく衣替えした制服に身を包んで、ただぼうやりとそこに立っていた。黒いハイソックスが片方落ちていることに気付いていたけれど、それを引っ張りあげる気なんてさらさら起きなかった。
 ベンチに座って眺めるホームは、閑散としていて、今が夕暮れを過ぎて夜に向かっていることを教えてくれているような気がした。
 あたしのちっぽけな感傷はそこで終わり、再び電車が通過する。

 そのごうとうなる音に耳を塞がれて、あたしは二つに結んだ髪の毛が流れていくのをただじっと目で追っていた。

 なにをしているのだろう、などと考えるのは今更であり、膝の上に置いた鞄の中身は空っぽで、同じくらいあたしの胸のうちも空っぽだった。それがどうであるということもなく、それがそうであるということであり、あたしは特に何も思わなかった。
 思うことすらどこか消えてしまったように思う。

「いやあ、綺麗なもみじだね」

 やにわに響いた声は、頭上から落ちてきたもので、あたしは急に現実に引き戻されてハッとそちらを仰いだ。その寸前に、ローフォーの先にもみじが一枚落ちてくるのが見えたけれど、どうとも思わなかった。
 声の主は、少しばかり小汚いホームレスのような少年だった。肩から提げたかばんから、父さんがよく使っている靴磨きの布がはみ出ていて、革靴の匂いがむっと彼から漂ってきた。

「そう思わない? 綺麗だよね」
「…」

 あたしは、返事をしてしまったら何か魂でも持っていかれてしまいそうな気がして、何も答えることができなかった。それほどに少年は、夜に向かうホームの閑散とした風景に似合わないのだった。
 同じ人間であるということをまず認識すればいいのに、あたしにはとてもそれができなくて、何かひどく彼が異質なものであるように思われた。

「あー、シカトかぁ。まあそうだよね」

 少年は何か納得した様子で、何がおかしいのかけたけたと笑い、あたしの横にどっかりと座り込んだ。そうして肩から提げていた重そうなかばんをどさりと足元に下ろす。

「疲れたー」

 彼は大きく伸びをして、大きく独り言を言った。
 あたしは相変わらず返事ができなくて、俯いて、ローファーの先に乗った一枚のもみじをじっと見続けることしか出来なかった。

「俺、知ってるよ。キミ、朝からここにいるだろう?」
「……」
「だんまりか。それでも構わないけど。じゃあ俺の話でも聞いてもらおうかな」

 彼は唐突にそう言い、とうとうと語りだした。

「今日の客はね、佐藤さんと言って、俺のお得意さんなんだ。でね、今日話を聞いたら娘さんがおめでたで駆け落ちで結婚するんだって。佐藤さんのスーツのズボンの裾、娘さんに俺は見せてあげたいね。キミにはどういうことかわかるかい?」
「…知らない」

 あたしは声を搾り出すように答えた。どうして答えてしまったのかわからない。
 彼はあたしが答えたことがどうも嬉しかったようで、途端に弾んだ態度であたしのほうに身を乗り出した。

「だろう? そうだろう? きっと俺にもわからないんだ。だけど、何か思うことは俺にだってできるよ。キミにだってできるからね」
「…」
「俺は思うんだよー! 人が正しく何か考えることができたら、その瞬間から、人は大人になるんだよ!」
「え?」

 あたしは思わず聞き返してしまった。だって彼の言うことは突拍子もないことであり、俗に言うコウトウムケイとやらだった。だっておかしいじゃないか。そうしたら、思考できる幼児も、学生も、誰も彼も大人になってしまう。
 あたしでさえ、そうなってしまう。
 あたしでさえ。

 あたしは。

「おとなになんかなりたくないかい?」

 見透かしたように少年は言い、閑散としたホームに通過電車のアナウンスが響き渡った。彼は徐に立ち上がり、荷物を持つと、白線の外側に立って、あたしと向かい合った。
 片方落ちたハイソックスが、風に揺れてなびくのがわかった。
 少年の黒い短い髪が、来るべき風にさらわれて揺れていた。

「俺はなるよ。大人に。じゃないと、先に進めないからね」
「あたしは―――」

 少年は人差し指を空に向けて、あたしの答えを待たずに後ろへゆっくり倒れていった。あたしは制止することもできず、ただ、あ、と口を開いて腰を僅かに浮かせただけだった。
 ごう、と音を立てて電車が通過していく。
 舞い上がった紅葉が視界を覆って、あたしは少年の姿を見失った。

 電車が通過したあとには何も残っていなかった。
 残っていなかった。
作品名:白線の内側まで 作家名:空架