シテン
** 視点 **
この学校の二年生、村木浩輔(こうすけ)。それ以外は何も知らない事に、今日になって気付いた。仮にも自分に好意を抱いてくれた人に対して、なんの詮索もしないままに別れてしまった昨日の中庭デート。紙飛行機を始終見つめていただけで終わってしまった。話に行くにしても――クラスも知らない。部活はやっているんだろうか? どこに住んでいるのかさえ知らないな。二年の教室に名前だけを頼りに探しに行く事もできなくはないが、そんな勇気も気力も今はない。また会った時に聞けばいいか……。
知り合いになったらそれが常識だとでもいうように、携帯の番号とメールアドレスを交換する同級生達と違って、先輩は何も訊いてこなかった。忘れただけ? あ、携帯を持っていないとか? 今度会った時にこれも本人に訊こう。
誰かに会って訊きたい事がこんなにあることって、今まで覚えている限りなかったな。
無造作に教科書やノートを机の中に片付けて、ボーっと窓の外を眺めていた。今日の空は、どんよりと曇っている。昨日よりも気温は低くて、でも空気は水分を含んでいて、少し湿っぽいから蒸し暑い。
すぐにでも雨が降り始めるかな。天気予報は降水確率八〇パーセントだと言っていたっけ。
「おっはよー、圭子ちゃん」
底抜けに明るい声が聞こえてきた。あごを机に乗せる感じで窓の方を見ていた私は、「おはよ」と言いながら顔を持ち上げそっちを見た。声の主は、私の隣の席の井上未来(みき)。身体全体が丸く、ぽっちゃりとしていて、笑うとほとんどなくなる目が今もない。緩やかなウェーブのかかったくせ毛を、いつもカラフルなゴムで一つに結わえている。未来はそのくせ毛が嫌で私の髪を気にいってくれているが、猫っ毛で張りのないストレートヘアの私からすれば、未来の髪が羨ましい。無い物ねだりだ。未来からはいつも幸せオーラが出ていて、特にそれはランチタイムになると教室中を満たすほどだだ漏れになる。私は甘んじてそのオーラの中で、彼女と一緒に弁当を食べる。それがまた、美味しいのだ。
「よっ、相沢。井上。おっはよっ」
後ろから軽く肩を叩かれた。
「おっはよー。忍くん」と、未来の陽気な声。
「おはよ、森下」と、相反して陰鬱な私の声。
少し遅れて教室に入ってきたのは、私の前の席に座っている森下忍(しのぶ)。中学ではサッカー部にいたらしいのだが、ここ岩高にサッカー部はない。それでも球を追いかけるのを止められなかったようで、今はハンドボール部に所属して、少し小さくなった球を追いかけている。人好きのする童顔で、本人は嫌そうだが、笑うと口の左端から覗く八重歯が、それに拍車をかけて忍の顔をより幼く見せる。こういう表現は嫌いだけど、男のくせに未来に負けず劣らずおしゃべりだ。よくもそんなに話題が出てくるな、と感心するほど彼らのチャットは終わりを知らない。
二週間ほど前に席替えがあった。「クラスの皆と仲良くなろう」という担任の無責任な提案に、クラスからは特に反論が出ることもなく事が行われた。クラス全員が八方美人でもない限り、全員と仲良くなるのは難しいだろう。知り合い程度の関係になら持っていけるだろうけど……。大人の付き合いができるほど、数か月前まで中学生だった自分たちに分別はない、と思う。
出席番号順で元々前と後ろの席に座っていた未来と私は、その時点ですでに仲良くなっていて、別にしなくてもいいのにね、なんて言い合っていた。顔見知り程度だった森下とは、初めに未来が仲良くなった。会話のリズムが合ったんだと思う。私が未来と仲がいいから、森下とも自然と話すようになった。結果的に担任の『クラスの皆と仲良くなろう』作戦は、‘皆’とはいかないまでも少なからず成功したことになる。八方美人にはなりたくないが、気の合う友達が見つかることには、何の異議もない。
「なんか、圭子ちゃん元気ないね。眠いの?」
未来のこの声にはいつも元気づけられるのだが、今日は頭の奥に轟く感じがして少し目眩を起こしそうになった。うまく回避した方が身のためだと思い、頷いて「ちょっと寝る」と机にうつ伏せた。
眠くなんかない。いや、眠いのかもしれないが、眠れそうにはない。
一目ぼれのカラクリと、昨日の中庭で湧き起こってきた感情の答えはまだ見つかっていない。頭の中を覆い尽くしている靄(もや)は、一夜明けても晴れることはなく、それどころか非情にも濃くなっている気さえする。一人で考えても、何も前に進まない。やっぱり、兄に聞いてみたら良かったのかな……。
隣で未来が「ランチ、ランチ」と、小躍りでもし始めそうに机を私の方に動かしてきた昼休み。「いただきまーす」と同時に、弁当を嬉しそうに食べ始めた未来に言った。
「ねえ、一目ぼれってしたことある?」
次の瞬間には、未来は静止していた。目が大きく見開かれて、口がシュウマイをくわえた所でポーズされている。
あれ、私……なんか変なこと言った?
「圭子ちゃんの口から‘一目ぼれ’とか出てくると思わなかったから、ビックリした」十分な間を置いてから、未来が言った。「うん、驚いてるよ。私」
「そんなにおかしいかなぁ? 私が一目ぼれって言うの」
「だって圭子ちゃん、あんまりそういうのに興味ありませんって感じだし」シュウマイをのみこんでから一息でそう言うと、次のおかずに箸を伸ばした。「えっと、一目ぼれね。うん、あるよ。だって、かっこいい人を見たらワクワクするでしょう? また会いたいとか、話してみたいとか思うし。毎日が楽しくなる。あっ、ちなみに今は好きな人はいないけど、それでも毎日が楽しくないってわけじゃないんだけどね」
こんなにワクワクしながらご飯を食べる未来に、毎日が楽しくないなんて言われたら、友達として責任を感じてしまう。それでも未来は好きな人ができたら、今よりも幸せオーラを垂れ流すんだろうな。ランチタイムだけ強くなるんじゃなくて、一日中周りが肌にジリジリと感じるほどに。
「なんだか楽しそうだね、未来。私はきっと、誰かを好きになったことがないんだな。今まであんまり考えたことがなかったから、よくわかんない」
昼飯のパンや飲み物を買いに購買に行っていた森下が、目当ての物をゲットして意気揚々と帰ってきた。のんびりしていると、サンドイッチや総菜パンにお目にかかることはできなくなる。四限目の終了のチャイムが、昼休みランチ争奪戦開始のスターターだ。
「ねえねえ、忍くん。圭子ちゃんが一目ぼれだって」
未来は、待っていましたとばかりに森下に報告している。まあいいんだけど、こうやって噂は広がっていくんだな。背びれが付き、尾ひれが付き……真偽も定かでない話が、フラフラと独り歩きを始めてしまうんだ。私の知らないところで――
「はあ?」
片方の眉を吊り上げて、森下も驚いた顔をした。言葉は出てこなかったが、何か言いたそうな雰囲気は伝わってきた。そんなにおかしいかな? 私が‘一目ぼれ’って言うの。
「違うよ。私が一目ぼれをしたんじゃないからね。一目ぼれをしたことがあるか、未来に訊いてただけ。森下は? 一目ぼれしたことある?」
話の流れが‘私の一目ぼれの相手’に持っていかれそうで、急いで主旨の方向を訂正した。