魔術師 浅野俊介4
第4章 清廉な歌声
(なんて、清廉な声なんだ…!)
浅野俊介は、自身の所属しているタレントプロダクションビルの声楽レッスン室で、自分のためにシューベルトの「アベマリア」をラテン語で歌う北条(きたじょう)圭一の声を聞いて思った。
20歳とは思えないテノール歌手のような深い声が、浅野を包んでいる。
(自分が悪魔だってこと忘れるなぁ…)
また、パートナーの秋本優(ゆう)が弾くバイオリンの音色もいい。
曲が終わった。
圭一と秋本が浅野に頭を下げた。
浅野が拍手をした。
「すごいよ!圭一君!」
圭一が顔を赤くして、また頭を下げた。横の椅子にいるキャトルは寝入ってしまっている。
「ありがとう!わがまま聞いてくれて…。秋本常務もお休みなのにすいませんでした。」
浅野が立ち上がって秋本に頭を下げ、握手をした。
「常務はよして下さい。」
秋本が照れ臭そうに言った。浅野より1歳下だと言う。
その綺麗な顔立ちから「美しきバイオリニスト」と言われている。しかし、私生活は男っぽく、毎日バイクで通勤し、バイクスタントマンの経験もあるという。
「心が洗われるようなひとときでしたよ。」
「浅野さん、ほめ上手。」
圭一が笑って言った。
「本当だって!贅沢な時間を過ごさせてもらったよ。」
浅野が圭一とまた握手をして言った。
……
(このプロダクションの空間がいつも清められているのは、圭一君のおかげかも知れないな…)
浅野は思った。
あの圭一の綺麗な声を聞いて、心を打たれない人間がいるなら、そいつは悪魔以下だ…と、自分を悪魔だと思っている浅野は思う。
(今日マジで、圭一君のアルバム買って帰ろう。)
圭一と秋本のユニット名は「light opera(ライトオペラ)」というそうだ。「オベラ」と称するには、まだ未熟だということで「light(軽い)」をつけたのだという。
(なんとまぁ、謙虚なことだ。)
圭一君らしいな…と浅野は思った。
……
浅野はCD店にいた。
「ジャンルはやっぱりクラシックだよな…ライトオペラ…ライトオペラ…と…あった!」
浅野は圭一の顔を見つけた。
「デビューの時は独りだったのか…。」
そう呟いて、そのCDを取った時、心臓がドクリとなった。
浅野は動きを止めて、目だけを動かした。誰かが見ている。
浅野は一旦CDを戻して、何もなかったかのようにその場を離れた。そして、CD店を出た。
……
誰かがついて来ているのがわかる。浅野は歩行者天国の道に入り込んだ。スクランブルに人が交差して歩いている。
浅野は狭い道に入り込んだ。
後ろから、足音がついてきているのを感じ、浅野は立ち止まって振り返った。
黒いロングワンピースを着た女性だった。何かの絵から出てきたような整った顔をしている。
(美しい薔薇にはトゲがあるってね……っとと!)
浅野に向かって、光が飛んできた。浅野は体を沈めて避けた。
浅野は女性とは逆の道へ走り、大通りに出て振り返った。女性は路地の出口のところで止まり、浅野を見ている。追いかけて来るつもりはないようだ。
浅野は雑踏に紛れるようにして、歩行者天国を抜けた。
……
(見たことあるような…)
昼に見た女性は、黒いロングワンピースに対比して、顔や手が異様に白く見えた。
浅野は、バーでグラスを拭きながら考えていた。
今日は圭一は生放送のクラシック音楽番組に出るため、バーには来られないと言っていた。
「そうか、テレビつけなきゃ。」
浅野はそう思わず言って、テレビをつけチャンネルを合わせた。
「始まったばかりだ。間に合った!」
浅野が思わずそう言うと、カウンターで飲んでいた作曲家の沢原亮が笑った。
「美しきバイオリニスト」の秋本優と同じ24歳の常務で、女性的な美しさを持つ秋本とは対照的な、男らしいはっきりとした目鼻立ちをしたハンサムだ。男前というのはこういう人を言うのだろうな…と浅野は初めて会った時に思った。
「圭一君出るんでしたね。」
沢原がテレビに向いて言った。
「ええ。」
「あれ?独りか…。珍しいな。」
「何でも秋本さんは、荒川真美ちゃんの伴奏の仕事が先に入っていたとかで…」
荒川真美はまだ19歳と若いが、歌唱力を武器にした歌手で、秋本の恋人でもある。
「そうなのか…言ってくれたら、俺がピアノ伴奏行ったのになぁ…」
沢原がトマトジュースを一口飲んで言った。
「今日、沢原さんはデートは?」
「未希が同窓会でね。」
「…あー…寂しいですねぇ。」
浅野がそう言うと、沢原が笑って言った。
「まあね。だからここへ来たんだ。」
未希とは、荒川真美と同い年でダンスが得意な歌手である。相澤プロダクションは社内恋愛には寛大らしい。あの圭一も、フランス人と日本人のハーフである歌手のマリエと付き合っている。
微笑みながらふとテレビを見た浅野の目に、ぞっとする光景が映った。
観客席にあの黒いロングワンピースの女が無表情で座っている。その目は浅野を見ているように見えた。
「…大変だ…圭一君が…!」
「浅野さん?圭一君がどうしたんです?」
沢原が、急に浅野の顔色が失せたのを見て、立ち上がりながら言った。
「すいません…バー閉めていいですか?」
「俺だけだから構わないと思うけど、浅野さん、どうしたんです!」
「圭一君のいるこのスタジオはどこですか?」
「!?」
沢原はテレビを見た。
……
浅野は沢原の車に乗せられ、高速道路を走っていた。近くなら瞬間移動するつもりだったが、無理な距離だった。
「何が起こるのか、話してもらえませんか?」
沢原が運転しながら、助手席にいる浅野に言った。
「信じてもらえるかどうか…」
「信じないつもりなら、車を出したりしませんよ。」
「!!沢原常務…」
「常務はいりません。圭一君に何が起ころうとしてるんですか?」
「悪魔が圭一君を狙っているんです…」
「悪魔!?」
「実は私も昼に会っているんです。その時私に攻撃してきたんですが、あれは、圭一君の死を邪魔するなという警告だったのかもしれない…」
沢原はカーナビのテレビをちらと見た。
「まだ圭一君は歌う番じゃないようですね。」
「今日は最後だと言っていました。」
「その前にやるのか…歌った後でやるのか…」
沢原の言葉に浅野が首を振った。
「悪魔の心の中が読めない…」
浅野が目に手を当てた。
(リュミエルは何をしてるんだ!キャトルの影も感じない…)
浅野は今までにない焦りを感じていた。
(階級によるが…悪魔に呪い殺されたら、圭一君の行くべき天国には行けない…地獄か魔界か…)
浅野は心臓がドクリと鳴るのを感じた。
「!!」
黒いロングワンピースの女が走る車と一緒に飛んでいる。浅野の真横だ。
「しまった!罠だ!」
浅野が叫んだ時には、車が高速道路の側壁に車体をこすりつけていた。
「!!」
浅野が驚いて沢原を見ると、必死にハンドルを両腕で押さえていた。
側道の壁と車体がこすれて火花が散っている。
「くそ!負けてたまるか!」
沢原がそういいながら、ハンドルを押さえ込んでいた。ブレーキを踏んだままにもかかわらず、車が止まらない。