モンキー・ビジネス
少年が口を開くよりも早く、ドアを閉めた。叫び声を上げるかどうかは、賭けだったが、うまくごまかす自信はあった。とにかく、来客を追い出さなくてはならない。登志男は大股に階段を降りた。
リビングで、若い男が待っていた。背が高く、眼鏡をかけた整った顔だちの男だ。母は台所でコーヒーでも淹れているらしい。上機嫌な鼻歌が聞こえてきた。勝手に家の中に入れたことに対して怒りが湧いたが、第三者の見ている前で非難できるほどの度胸はない。曖昧に頭を下げる登志男の全身を、男の鋭い視線が素早く行き来した。
「あのう……」
「度会といいます。医科大学で助教授をしております」
声を上げそうになった。かろうじて自制したが、度会という助教授は見逃さなかった。たたみかけるようにいった。
「時間がないので率直に尋ねますが、この家に子供がいますね。中学生……いや、小学生ぐらいの」
「いえ……いません」
「嘘をつくな」
度会は声を低め、登志男に詰め寄った。
「おまえが連れ去るのを見たひとがいるんだ。ここにいるんだろう」
「いませんよ。うちには子供はぼくひとりしか……」
「いいか、よく聞けよ、この変態野朗」
度会の手が、登志男のシャツの胸をつかむ。見た目にそぐわぬ力だった。登志男は思わず息を詰めた。
「ただでさえ危険が迫っているんだ。明石教授になにかしていたら、怪我ぐらいじゃ済まさないぞ」
「ぼくはなにも……」
蚊の鳴くような登志男の声を遮るように、烈しい声が響いた。子供の泣く声だったが、弾けるような大声だった。度会の表情が強張った。
「まずい」
短くいうと、度会は白衣のポケットから小型のケースを抜いた。中から取り出した注射器に、登志男の目は釘づけになったが、よく確かめる間もなく、度会に突き飛ばされた。
登志男の制止など耳にも入らない様子で、度会は階段を駆け上がっていった。
「なあに、今の声」
母親が目を丸くしてキッチンから出てくる。登志男は床にへたりこんだまま、動くことができなかった。
しばらくして、階段を降りてくるふたりぶんの足音が聞こえた。リビングに顔を出した度会の背後に、小柄な老人が立っていた。薄くなった白髪を撫でながら、痩せた顔を皺だらけにして笑う。
「いや、どうも、お騒がせいたしましたな」
「はあ……」
茫然としている母親と登志男を残して、ふたりはさっさと玄関に向かった。
「あまり心配かけないでくださいよ」
「なかなか楽しかったぞ。ちょっと変わっているが、いい青年だったな」
「変わっているのは教授のほうですよ。あの姿で外をうろついたりするから、こんなことになるんです」
「好奇心には勝てん。きみが治療薬を持ってきてくれるのはわかっていたから、心配はしとらんかったよ」
「間に合ったからよかったものの、胎児にまでなっていたら、注射もできなかったんですよ」
「わかった、わかった。そう怒らんでくれ」
「まったく……」
意味不明のやりとりをかわしながら、老人と青年は門を開け、のんびりとした足どりで出て行った。その後姿を窓から見つめながら、登志男は思った。世の中にはいろいろな趣味の人間がいるものだと。
おわり。