モンキー・ビジネス
世の中にはいろいろな趣味を持つ人間がいる。熊谷登志男の場合は、しかし、少々特殊といえた。
「トシちゃん、晩御飯は?」
「いらない」
「さっき、声が聞こえたみたいだったけど、お友達でもきてるの?」
「きてないよ」
冷蔵庫を覗き込む間にも、背後の母親の視線はしつこくまとわりついてくる。この家に友達がきたことなど、ただの一度もない。怒鳴りつけてやりたいのをかろうじて堪え、牛乳パックを取り出す。この母親に殺意をおぼえることは稀でなかった。
コップに牛乳を注ぎ、一気に半分ほど飲み干す。自分で思っていた以上に喉が渇いていたらしい。登志男は全身で息をついた。腕時計に目を落とす。流行遅れのデザインのダイバーズウォッチは、ちょうど6時をさしていた。家の外も中も、ふだんと変わったところはなにもない。会話を諦めた母親が眺めるテレビのニュースは、テレビタレントの脱税を報道していた。
牛乳パックにコップ、土産もののロールケーキの箱を来客用の盆に載せて、階段を上がる。二階の自分の部屋は、外から施錠できるように鍵をつけかえたばかりだった。
すぐにはドアを開けない。盆を床に置き、耳をそばだてる。物音は聞こえてはこなかった。胸の高鳴りは期待のせいか、それとも恐怖のせいか、判別することができない。何度も深呼吸しながら、登志男はドアを押した。
息が止まるかと思った。目の前に立った少年が、黒い瞳でじっと登志男を見上げていた。長い前髪が、やわらかそうな額の表面で流れている。6、7歳ぐらいだろうか。この年代独特のあどけない表情に、かすかな戸惑いが浮かんでいた。
「おなか、空いてない?」
後ろ手に鍵をかけながら、ケーキの箱を差し出す。少年は興味を示さず、観察するように登志男を見つめつづけた。登志男はいたたまれなくなり、目を逸らした。
もともと、悪事には慣れていない。歩道橋の脇にひとりでいる少年を見つけたときには、つい抱き上げてしまったが、それも衝動的なことで、はじめから攫うつもりで近づいたわけでは決してない。自らの性癖は認めていたものの、これまでどおり、欲望と理性を共存させて生活できた。パソコンやDVDのなかの少年少女たちがいればそれでよかったのだ。それがこんなことになってしまったのは運命でしかないと、登志男は思った。
「ケーキ、食べようよ」
上擦った声でいうと、少年は小さく首を振った。
「甘いものは、苦手なんだよ。あいにくだけどね」
おとなびた口調だった。最近の子どもには珍しくない。登志男は少年の弾けるような肌に胸をときめかせながら、コップに牛乳を注いだ。
「大学生か」
小さな声に顔を上げる。少年の目は登志男を飛び越えて、書棚の参考書をとらえていた。
「漢字が読めるんだね」
おだてたつもりだったが、少年は無反応だった。爪先立ちで手を伸ばし、了解を得ようともせず、参考書のうちの一冊を手に取った。小さな手で投げ遣りにページを捲る。
「関数解析学とは、懐かしい。線形汎関数と共役空間、作用素のレゾルベントとスペクトル、コンパクト作用素、自己共役作用素のスペクトル分解定理。基礎理論の応用には欠かせない題材だな」
唖然とする登志男には頓着することなく、少年は参考書に目をはしらせる。途中で手を止め、顔をしかめた。
「きみねえ、微積分と複素関数論の初歩で躓いていては、どうにもならんじゃないか。それでよく進学できたものだな」
その言葉で、登志男はようやく我に返った。眼鏡の縁を指先で押し上げ、平静を装う。
「参ったよ。秀才なんだな」
頭がいいとはいえ、相手は子供である。まともに相手をすることはない。余裕を持った笑みを浮かべ、腕を組んだ。
「きみ、小学生だろ。塾に通っているの?」
登志男の質問に、少年は疲れたようなため息で答えた。眉間を指圧するしぐさは、まるで老人のようだった。
「義務教育は50年前に修了した。現在の所属は大学だよ」
堂々とした言葉に、登志男は口を開けていることしかできなかった。ようやく出た言葉は、なんとも情けないものだった。
「飛び級?」
「日本でそんなものが認められていないことぐらい、わかっているだろう。そこまで馬鹿なのかね」
少年は居丈高にいって、書棚から一冊の本を抜き出した。表紙を登志男に向けてみせる。
「これを見なさい」
登志男は流れる汗を手首で拭いながら、目を凝らした。有機化合物の合成、性質についての研究が記されたぶ厚い本である。図書館で借りてきたはいいものの、何度か開いただけで放置してある難解な書籍だ。監修として、明石周五郎の名が刷られてある。
「わたしがこの明石周五郎だ」
ため息が漏れた。素直で愛らしい子だろうと思っていたのに、あてがはずれた。苛立ちと悲しみが綯い交ぜになった気持ちをもてあまして、登志男は頭を抱えた。
「驚くのも無理はない。わたしでさえも、いまだに信じられないんだから。いや、予想していなかったわけではないが、まさか、これほどとは……」
科学、薬学の権威を名乗る少年は、大儀そうに腰を折り、呟いた。登志男の訝しげな視線にようやく気づき、苦笑いを浮かべてみせる。
「説明が必要だな……煙草はないのか?」
登志男がにらみつけると、少年は肩を竦めた。ベッドに深く腰かけて、疲れたように話しはじめた。
「アンチエイジングというのかね。ひとはだれでも、若くありたいと願うものだ。そのための薬を長年研究してきたのだが……」
噴き出しそうになった。いくら頭がいいとはいっても、やはり子供である。安手のテレビドラマにでも影響を受けたのかもしれない。登志男は軽い口ぶりで調子をあわせた。
「自分の体で薬を試した?」
「いや、栄養ドリンクと間違えて飲んでしまったのだ」
少年が真顔で答える。どうやら、本気で自分を博士だと信じているらしい。多感な時期にはありがちな夢想だ。登志男はかろうじて余裕を取りもどし、さりげなく少年の隣に座った。
「つまり、きみは偉い教授さんで、薬のせいで、老人から少年に若返ってしまったってわけね」
「厳密にいうと、若返っている」
過去形から現在進行形へと訂正して、少年は自分の掌をしげしげと眺めた。
「また小さくなっているな」
ぼそぼそといって、登志男のほうに手を差し出してみせる。
「ほら、さっきよりもあきらかに縮んでいるだろう。しかも、若返る速度が速まっているようだ」
登志男はまるで聞いていなかった。鼻から息を吐き出しながら、目の前の小さな白い紅葉を凝視した。平面やヴァーチャルの世界でしか見ることのできなかった滑らかな曲線が、そこに存在していた。
おそるおそる手を伸ばし、触れる。登志男の様子にさすがの少年も眉を顰めた。
「なにをしているのかね?」
登志男は魔力に導かれるかのように少年に近づいた。目を丸くしている少年の首に唇を寄せる。薄い皮膚同士が触れあおうとした瞬間、部屋の外から声がした。無視していると、声にノックが重ねられた。
「トシちゃん、お客様」
母の声は弾んでいるように聞こえた。舌打ちし、立ち上がった。母を遠ざけておいてから、ドアを開ける。
「逃げるなよ」