12月 影絵の家
しばらく振ってから瓶を捨てて、部屋に戻ると彼女の姿はなかった。まるで初めからいなかったようにぽっかり消えていた。やっぱり夢なのか? 僕はふと子どもの時にいきなり消えてしまった母を思った。母も北海道の雪の中にふっと消えてしまったんだ。影さえ残さず。
けれど、彼女の飲み終わったグラスの縁についている口紅の痕が、そこについさっきまで彼女が存在した事を証明していた。
それから数週間後、ポストにハンバーガーのチラシが入った。そう言えば彼女がいなくなってから、今まで嫌がらせのレベルで突っ込まれていたチラシが全く入っていなかった事を思い出した。無ければ無いで、自分にとって気分の良くない事は消えていく。彼女が他の男と去った事も、僕にとってみれば気分が良くない事の部類の筈だから、きっと消えていくだろう。今だけだ。気にしなくていい。今までも何回か振られた経験があるくせに、今回は特に深い所に張り付いているらしくシクシク痛みだす。質が悪かった。・・・今頃は、ニューヨークだ。
僕は無表情にハンバーガーのチラシを見つめ続けた。
「いらっしゃいませ!ようこそ○○ハンバーガーへ!ご注文はいかがなさいますか?」きっちりと教育されている元気の良い女の子の笑顔と声が僕を圧倒した。丁度昼前の時間帯でレジは徐々に込み始めていた。
「えーっと・・・このチラシに載ってる奴を下さい」勝手のわからない僕は、とりあえず持参したチラシを指した。
「はい!トリプルチーズバーガーですね!かしこまりました!セットになさいますか?」
「え? あ、はい。お願いします」
「はい!かしこまりました!お飲物はいかがなさいますか?」
「え? あ、えーと・・ワインはないですよね?」
「申し訳ございませんが、アルコール類は取り扱っておりません」
僕は苦笑した。何故ならいつも家で作るハンバーガーは赤ワインと一緒に食す事にしていたからだ。
「じゃあ、なにかジュース以外のものを・・」
「ウーロン茶かコーヒーがお選び頂けます」女の子の笑顔は崩れない。
「じゃあ、コーヒーで」
「アイスとホットお選び頂けます」
「あ、アイスで。いや。やっぱホットで」
優柔不断な僕は何とかレジを切り抜けた。これで何度目だろう? どうにもテンポが慣れない。レジの女の子は、さすが僕程度の客では声のトーンも笑顔も下がらなかった。
取り合えず窓際のカウンターで渡された番号札を置き待つ。今日は快晴だった。青白い空と強い日差しが心地良く差し込むカウンターに、若干折り目が白く目立つチラシを置いて眺める。別に何も変哲のない普通のチラシだった。それでも僕は隅から隅まで点検する様に眺める。店内は家族連れや子ども連れが目立ち、カウンターにはコーヒーを飲む独り者もちらほらいた。
「お待たせいたしました!」
若い男の店員が運んできたそれは、儚気に高くそそり立ち、今にも爆発しそうだった。デカイ・・・!チラシより遥かに大きくて高い。
大体ハンバーガーはサンドイッチの一種だ。手軽に食べられると言うコンセプトの元、パンとハンバーグを一緒に食べられるように考案されたものでないのか? 僕は目の前で不安げに佇むトリプルチーズバーガーを見つめた。
「見てー!あれー!すっげー!」後ろの席で子どもが騒いだ。吹き出す音が四方から聞こえた。
「あの、フォークとナイフってありますか?」僕は動揺を悟られない様にして、笑顔でさりげなく店員に聞いてみた。
「申し訳ございません。生憎そういうものは用意がございません。」店員も負けずに笑顔で返してきた。
手づかみで食えという事なのか? 本来なら挟んで食べる為のものであろう包み紙さえもハンバーガーの下敷きになって、端っこしか見えない。それを引っ張りだそうものなら、たちまち重心を失い崩れるのが明らかだ。
まったくふざけてる。僕は溜息をついて目の前のハンバーガーにとりかかった。
それは、罰ゲームの種類に新たに追加される予定だろうと思われるものだった。パンの原型をとどめているのが上だけしかないのも痛かった。下のパンは、僕の口に入って咀嚼される前に既に咀嚼されたような有様だった。それは一重に間に挟まる柔らかいトマト、薄いハンバーグ、黄色いチーズ、分厚いピクルス、貧弱なレタスに問題があった。それが3段づつ挟まっているのでトリプルらしいが、いかにせトマトとレタスが柔らか過ぎるし、ピクルスが水々し過ぎる。それにチーズが溶け過ぎる。これでは自然の摂理に従って、垂れたり染み込んだりするしかない。
僕は黙々と口を動かし続けた。パンを端に置いて少しずつちぎり、まずはトマト、次にハンバーグ、チーズ、ピクルスの順に胃に送り込む。ようやく手で持って食べられる高さになった頃には、もう満腹で下のパンも食べ物と呼ぶにはあまりにもずさんな姿になっていた。もう無理だ。
店員にテイクアウト出来ますか? と聞くと、すぐさま用意をして手際よくテイクアウトの容器に入れてくれた。どうやら、頼んだ人間はみんなテイクアウトしているようだった。
店を出て、公園に行った。野良猫が沢山いる公園の秘密の茂みに座り、猫が来るのを待った。
ハンバーガーの臭いにつられて猫はすぐに集まってきた。僕は巨大ハンバーガーを惜しみなく広げた。猫達は飛びついて一心不乱に食べ始めた。
僕は寝っ転がって空を見上げた。
今日で10回目だ。ポストに突っ込まれるチラシに記載されている店のどこにも行っても手がかりはない。
やっぱりもういないんだ。いくら美味くもないハンバーガーを願掛けのように食べたところで無駄だ。もう。チラシもハンバーガーもうんざりだ。僕が何をしても、何もかも、もう無駄なんだ・・・
僕は最近肉付きが良くなったお腹に手をやり、うたた寝を始めた。
冷たい感触を頰に感じて、僕は目を開けた。雪が降り始めていた。コートにもジーンズにもうっすらと雪が積もっていた。そう言えば今日は夕方から場所によって雪が振ると今朝のニュースで言っていたっけ。やれやれ。僕は起き上がり、雪を払った。すっかり体が冷えきっている。家に帰ろうと関節が軋む足で立ち上がった。辺りはもう暗くなり始めていた。
騒がしい商店街を抜けて、閑静な住宅街を横切り、錆びれた工場の脇の小道を入って少し行くと、ようやく小さな公園が見えてきた。今夜は月もない。暗い晩だ。風の踊り場なのか、そう言えばこの公園はほとんど強い風に吹かれている。今夜もそうだった。
僕は公園の前でふと立ち止まった。そして無意識に公園の真ん中に進み出た。不思議な事だった。その真ん中には風が強く感じられなかったのだ。どうやら台風の目なんかと大体同じ構造になっているらしかった。僕は静かに踊りだした。と言ってもちゃんと習った事なんてない。大学の時に付き合いで行ったクラブハウス以来だ。
滅茶苦茶なステップを踏んだが、目を瞑るとそれでも気持ち良かった。強ばった足の関節が今までにない動きに戸惑い、奇妙な音を立てていたが直になれたのか違和感はしなくなった。まるで体が勝手に動いているようだった。何も考えないで、ただ流れに乗れば良かった。お腹の出てきた肉も、一緒に揺れていた。