無声
ミキオさんはわたしを愛しているそうだけれど、でもその愛はただ手元にあるものを愛玩する愛。握り締めたたったひとつのチョコレートがこの世で一番すばらしいものだと思い込み、握り締めたままどろどろに溶かしてしまい、食べられなくなってしまうような、そんな類の幼く、切実な愛。
「すぐにご飯にしよう。今日は美味しそうなニンジンの漬物を見つけたんだよ。」
ミキオさんははにかむように微笑んで、買い物袋をカサカサ言わせながらキッチンへ向かう。
キッチンの向こうから見えるミキオさんの背中は大きくも小さくもない。ミキオさんが食器の入った戸棚に手を伸ばしたとき、そういえば今日、グラスをひとつ逃がしてやったことを思い出して、ミキオさんがそれに気づかないかどうかドキドキしたけれど、ミキオさんの反応を見るのが怖くて、わたしは寝室のベッドに逃げ込んで、枕をぐいぐいと顔に押し付けた。
それから、あの逃がしてやったグラスのことを考えた。
グラスは今頃どうしているだろうか。
アリとわずかな土の入ったグラスがキラキラと乱反射しながら落下していき、自転車の上か、コンクリートの上か、で粉々に散ったところを何度も何度も想像する。なんてキレイなんだろう。ぞくぞくする。これはもう快楽ですらあるかもしれない。散ったグラスはこれからどうなるんだろう。まさか百年も自転車置き場で生活するわけじゃないだろう。誰かが片付けるのかな。だとしたら壊れたグラスはどこへ行くんだろうか。誰かが一等キレイな形をしたものを拾って、誰かの宝箱の中へ入れてくれるんだろうか。それとも掃き捨てられ、他の同じような運命のグラスと出会って、どろどろに溶けて、ひとつになって、そしてまたグラスになって、誰かの戸棚に閉じ込められるんだろうか。もしかしたら窓ガラスになるかもしれない。ガラスのイルカになるのかもしれない。もっと別のものになるのかもしれない。それともどこかの空き地に永遠に転がり続けるのかもしれない。百年転がり続けるのかもしれない。ああ、なんて美しいんだろう。
ああ、あのグラスはどうなるんだろう。あのグラスがわたしだったらどうなるんだろう。
どんな素晴らしい結末と終焉が待っているだろう。
ベッドの向こうから見えた空はうすく青を重ねた群青がどこまでも広がり、夜の王をつれてくる。
部屋の中いっぱいに王の気配で満ち溢れ、わたしは幸福でありながら同じ位不幸であり、絶望的な目をしながら希望に溢れた手を握る。王が来れば朝が来る。そうなればまたわたしは空想ごっこを続けて、女王でも、少女でも、スプーンでも…なんにだってなる事ができる。でもその前に、今夜、ミキオさんはわたしを抱くんだろうか。それとも仕事をするんだろうか。それはわたしにとってはどちらでも同じことだった。でもミキオさんにしがみ付いている間だけは、わたしはただの人間になって泣きはらす事ができる。それは愛でも享楽でも惰性でもなく、ただの文学。
プロレタリアである自分を求めるのは、ある種のエゴイズムとマゾヒズム。哀れな自分を見つめて愛してやれるのは自分なだけだ、と実のない世界ばかりを抱き締め、わたしはこの、ただの愛玩であり続ける自分を許すことができる。それがミキオさんとセックスをする理由だった。快楽に意味はない。ただ、わたしは自分を愛するシチュエーションを求め、涙を流すことでセックスをしながら自己愛という名のマスターベーションに耽っているだけだった。
この危うくも美しい均衡の上にのみ、すべてが存在するというのなら、わたしは原始的な愛を求めているのかもしれない。働くことも、家事をすることも、勉強することもなく、ただ愛玩されつづけるわたしはすでに人間でもないのかもしれないけれど、それでもナイフとフォーク、箸を使ううちは文明に所属しているんだろう。それでもわたしはただの男女を願う。愛玩ではなく、愛を願う。原始的で暴力的で、野蛮な愛を。
その夜、ミキオさんのセックスは乱暴だった。
強い力で押し付けられ、骨がぐぅと鳴いた。
わたしは王にも世界にも泣きながら、必死で爪を立てて泣いていた。そうしなければきっと、わたしは死んでしまうと恐れていた。けれど実際は死んでしまおうが、殺されようが、そんなことはどうでも良かった。ただ乱暴にされながら、それを愛だと思い込んで、空想して、ミキオさんがわたしを求めている喜びに打ち震えていた。そして自分すらも愛し、そうして泣いている間は何も考える必要はなかった。
わたしは自分がどこで生まれたのか、どこで育ったのか、そういう全てを忘れていた。
わたしにはもう何も残っちゃいなかった。
あの夜、ミキオさんがわたしを拾った日からわたしは彼の所有物であり、この肉体も精神もわたしのために存在しているわけではなかった。それでもわたしは、自分が教室で先生に向かって「はい」とお行儀よく返事をしたり、友達と遊んだり、悪口を言い合ったり、かけっこで一等を取る自分を空想した。でも両親の顔や家族、クラスメイトの顔は何も空想することができなかった。みんな影の顔をしていて、それでもその場所は幸福と祝福で溢れていた。でもそんな子、もうどこにもいない。わたしはその子供の影に怯え、どこだか分からないその安息の地へ行きたくて、さみしくて堪らなくなった。足元から何かがひゅーん、ひゅーんと吹いているようだった。
「ミキオさん、言って。名前呼んで。」
ミキオさんが目を細めて困ったように笑って、くしゃりと汗で濡れるわたしの髪を撫でて、ささやくようにわたしの名前を呟いた。瞬間、幸福で体は満たされ、わたしはまた泣いていた。
外はいつの間にか雨が降っていた。
雨の音、クラクションの音、冷蔵庫の音。そんな無機質と生命の音をとても美しい音のように慈しみを持って愛した。ミキオさんとの空間の中で、それらは微かに輝く。素朴で、しかし大いなる循環に、わたしは今、この瞬間、何ものにも属していないと知った。ただあるのは、太古の男女のような、単純な性とこの肉体だけだった。官能的なまでに広がる世界の裾をしっかりと握っているような、ささやかな依存。何もかもがちっぽけで、すばらしいこの世界。
「お願い。いらなくなったらわたしを殺して。捨てないで。お願い。お願いだから、わたしを殺して」
「うん」
ミキオさんが微笑んで、わたしは酷く安心して微笑み返した。
どうしてだか涙が出た。
幸福でも不幸でもなかったのに。