無声
「あなたはアリ、という生き物なんでしょう。この間図鑑で見たから知ってるわ。今ならこの街の足元のブラジルって国の事だって知っているの。きっとわたしは賢い子だったのよ。でもね、最近思うの。もしもわたしが走ったら、きっと誰よりも速く走れるんじゃないかって。そうやって考えるとき、わたしの足はこの手すりに立って、あのどんぐり山まで走っていけるの。でもこの間、この手すりによじ登ったら、ミキオさんが真っ青な顔をしてわたしを抱きしめたからもう上っちゃいけないの。わたしは聞き分けの良い子だから、そんな馬鹿な子のすることはしちゃいけないの。でももしもミキオさんがしてもいいよ、って言ったらきっとこの手すりからジャンプして、空を掛けて、鳥の王様と一緒に走るわ。鳥だって走れるのよ。ダチョウって鳥は走るのよ。でも鳥だからきっと飛べるの。他の鳥よりすごい力があるんだから、きっとダチョウは鳥の王様なのよ。もしも王様に会ったら、わたしはキチンと頭を下げるわ。だってわたしは良い子だから」
一人でダチョウこと鳥の王様のことを考えながら、アリに、というか街に向かって話しかけていれば、どんどん頭の中が気持ちよくなった。いろんな色がとろとろと溢れて、桃を切ったような瑞々しくて甘い匂いが広がって、わたしはだらしなく笑う。どんどん体が熱くなって、わたしの舌はペラペラとよく喋った。アリはグラスの中でまだもがいていた。アリは可哀想。わたしほど大きな目がないから、きっとこの景色も見られないんだわ。
ドーパミンが溢れる。
己の小ささを自覚しながらもこうして言葉を持たぬ無機質や生物に話しかける時、わたしはこの世界の全てを知り尽くした賢く古い王になる。生意気な目をして、絵空事めいた事を話していれば何かから救われるのではないか、と傍観視するわたしの傍で、哀れで幸福な娘は幸福な顔で幸福な事を話し始める。
ミキオさんは、わたしをアメと呼ぶ。雨の夜に拾ったからアメ。
短くて可愛い名前だね。僕の好きな映画、アメリみたいで素敵だよ。僕はジャン・ピエール・ジュネも好きだけれど、本当はミヒャエル・ゾーヴァが好きなんだ。あの皮肉に満ちた空想の世界が、僕は好きなんだ。
今度DVDを借りてきたら一緒に見よう、とミキオさんは笑ったけれど、わたしはそんな日は来ないと知っていた。この部屋にテレビはない。テレビもないし、何もない。ただ生きていくのに最低限のものがあるだけ。そして、わたしもただここにいるというだけの事。
わたしはインテリアのひとつだった。
リビングに置いてある熱帯魚用の大きな水槽には、色とりどりの熱帯魚が泳いでいる。あの熱帯魚たちは生きている。それでもそれはミキオさんの心に何の感動も煩わしさも呼びはしない。ただそこにあるというだけ。ただいるから餌をあげるだけ。死んだのなら生ごみと一緒に捨てるだけ。そういう類の愛だった。
「もうわたしの話はおしまい。おまえもお家へ帰りなさい」
わたしは手すりに置いてあったグラスに手を伸ばし、ぽーい、と下に落とした。
手を離してから一瞬遅れてとても綺麗で涼しいガラスの割れる音がして、それを壊すかのように自転車が鳴った。ちらっと下を見れば下は吹きさらしの自転車置き場になっているようだった。もしもわたしが本当にあのどんぐり山まで駆けていこうと思うのなら、きっともっと大きな音がするんだろう。でも肉体から開放された精神は、そのままあの山まで駆ける事くらい訳はない筈だ。
わたしはそのままぐらりと倒れるように、ベランダに寝そべった。乾いた匂いのする、冷たいコンクリート。伸ばした手のシルエットが青を強調する、美しくも行き場のない青。
しばらくぼんやりと飽和していく体を持て余してから、起き上がり、自分でも冷ややかな目をしている、と分かる目でその小山を眺めてから、窓を閉めた。
ジャンバルジャンはわたしと目を合わせなかった。
仕事から帰ってくると、ミキオさんはいつもまっさきにわたしを抱きしめた。
抱き締めながらしばらくぼんやりとして、わたしは自分の肩がミキオさんの呼吸で熱く冷たく湿りを帯びていくのを覚えながら、じっとしている。ミキオさんを抱き締め返したことはない。いつもただじっとミキオさんがわたしから離れていくのを待ち続け、そしてジャンバルジャンの向こうに広がる空を眺める。夕暮れの部屋は青く透き通り、家具がひっそりと声を殺して、ひどく清潔な気配がする。それでもあたたかさはない。マンションの足元で子供の騒がしい声が聞こえて、車の音がして、何かのサイレンが鳴っている。外が賑やかで幸福であればあるほど、部屋はひっそりと声を殺してちいさくまとまっていく。わたしは泣きたいような、それとも罵り、罵倒してやりたいような、愛してやりたいような、哀れんでやりたいような、不思議な気持ちに胸の中をごちゃごちゃでいっぱいにして、黒く塗りつぶされていく心がゆっくりと言葉を失う。言葉は無意味で、いつも舌の上で溶けて消え、わたしの空想も絵空事も一日も、何もかもを裏切り、目の前にはただ存在しつづける自分、というひどく曖昧で社会に関係することのないただ一人の若い娘が残るだけだった。
そう、わたしは若い。
さらさらとして幼く丸い肩。肌は柔らかいし、お風呂でふやけてしまってもすぐにツヤツヤになる。水の玉だってできる。しかし女のそれでも少女のそれでもない。わたしは手に余る若さとエネルギーを持ち合わせながら、ただ惰性していく月日を送る。それでもミキオさんを愛している自分だけがこの世に存在し続ける意味があった。
ミキオさんは抱き締めていたわたしからそっと離れて、妙に澄んだ目でわたしを見つめた。少し細めて笑った顔が泣いているようにも見えたから、わたしはミキオさんの額に唇を落とした。
何かやさしいことを言ってやろうと思っていろいろと考えたけれど、結局何も言えなかった。
唇を離してぺたんと座り込めば、ミキオさんがわたしと視線を合わせるように自分も床に腰を下ろした。くしゃりとスーツがゆがむ。
「何を考えてた?」
「なにも」
「何をしていた?」
「なにも」
「どこかへ行きたい?」
「ううん、アメはここで満足」
ミキオさんが安心したように微笑んで、わたしも微笑んだけれど笑みだけがぎこちなく浮いたような気がした。
ミキオさんはわたしが消えてしまうことを恐れている。
自惚れなんかじゃなくて、本当に。ミキオさんの前ではジャンバルジャンとは親しくしない。ジャンバルジャンから世界を眺めていると、ミキオさんはとても不機嫌になってむっつりと黙りこくってしまったり、とても哀しい目をしたり、攻撃的になる。たとえば泣きそうな顔でわたしの首を絞めながら愛を誓ったり。でもすぐに、ごめんな、と言って何度も何度もわたしを強く抱き締める。ミキオさんにとってジャンバルジャンは鬼門だった。玄関もそう。玄関にわたしの靴はない。わたしは玄関に行かないから、玄関はわたしの友達ではない。だからまだ名前を知らない。