1月 雪虫
雨宮さん、入会しないかな・・・浜崎は安定剤をつまみにビールを飲んでいた。慣れたもので、もう何ともないらしい。
下の階では、もうすぐ臨月の翠が両親と話しながら夕飯を作っていた。翠は浜崎の両親ともすぐに仲良くなった。両親も翠を気に入っていた。平和な家だ。子どもが産まれたらもっと安泰だろうな・・・煙草に火を点ける。
「あ、また薬食べ過ぎてるーこれは食べ物ではないのだよ。わかってるのかね?」
翠が大きなお腹を抱えてよっこら上がってきた。
「雨宮さんは入会誘った?」
翠は僅かに怪訝そうな顔をした。が、すぐに笑顔を繕って「特に誘ってないけど、嫌そうだから・・・」浜崎は立ち上がった。
「そんなの誘ってみなきゃ、わかんないだろ?! 一人でも多くの人に入会してもらって、迷いから救われればいいと思わない?」何だか妙な剣幕で浜崎は怒りだした。薬を飲み過ぎている。翠はそう思った。
「それはそうだけど。でも、無理してもー・・」
「いいから。俺が言ってみるから。今度電話かけた時にかわって」
目を血走りながら詰め寄る浜崎の様子に根負けした翠は溜息をついた。「・・・わかった」
「もしもし。浜崎です。雨宮さん、いつかはごめんね。突然なんだけど、今度の選挙、雨宮さんは誰に入れるか、もう決まってる? もし・・」
翠からの着信に出ると浜崎だった。ユキは終いまで聞かずに電話を切った。気持ち悪い。うんざりだ。
再び翠から着信があった。恐る恐る出ると今度は翠だった。
「もしもーし!ごめんねー産まれたよーでっかいカバみたいな男の子!」
向こうの翠の明るい笑い声につられて、ユキも笑った。
「すごーい!おめでとーう!」
「今度又、遊びに来てねー」
あれから軽く半年程経ってしまっていた。宗教絡みだと思い、何だかおっくうになってしまってメールくらいしか連絡をとっていなかったのだ。メールは別に返信しなくてもいいから楽。忙しいって言い訳出来る。実際、大学の受験勉強で忙しかったし。ユキはそこそこのレベルの京都の大学に行こうと思っていたので必死だった。
「待ってるからね。話したい事もあるし」翠の声のトーンがガクンと下がった。
話したい事?嫌な気がする。急に翠の声が耳に響きだした。電話、切りたい。
「時間をみて、行きます。じゃ」唐突に電話を切ってしまった。いいや。もう。諦めのような物が心を満たしていくのを感じた。
年が明けた。その歳の春、見事にユキは京都大学に合格した。
そして、慌ただしく大学の寮に引っ越して行った。翠達の事はすっかり忘れていた。何とか元気でやっているでしょ。きっと。人間なんてそんなもんだから。ユキは気にしない様にして毎日を過ごしあっと言う間に卒業し更にイギリスに留学して見事博士号を取り、帰国してから大学の教授になった。
また、冬が来ていた。ユキは研究室の古びた窓から外を眺めた。白い綿毛が飛び交っている。雪虫?急いで窓を開けると、雪がひらひら舞う様に降ってきていた。ユキは空を見上げた。・・・違う。本物の、雪だ。もう8年も経っちゃたな。携帯も変えて、さっさと忘れりゃいいんだけど。なんだかな。
結局、あたしは雪虫みたいになれたんだろうか。雪になりたくて、でもなれないから真似て、せめてそれらしく、漂っているようでそれでも自分を主張して懸命に生きてこれたんだろうか。潰されていない今ではまだわからない。ユキと名付けられては貰ったが、自分のがさつな性格的に見ても美しく儚く溶けるような存在の雪になんてなれやしないのは解っちゃいるけど。
幸せでいるのかな。翠の屈託のない純粋な笑顔が脳裏に蘇った。浜崎は浮かばなかった。どんな顔をしていたかすらも忘れようと努めた成果が出たらしく破片も浮かばなかった。人によって感じる幸せなんて様々だし、きっと翠さんは翠さんの幸せを浜崎の中に見いだして、更に誕生した子どもにも見出しているんだろう。あの何も知らなかった駆け出しの時には見えなかった物が、今の2人にはもっとたくさん見えるかもしれない。それを紡いで本当のなにかを作り上げていくんだろうな。きっと。
あの時にあたしが感じた違和感は、きっと勘違いだったんだ。そう、思いたいし、そう願いたい。
感慨に耽りながら舞い散る雪を見上げるユキの背後の机でサイレントにしている携帯が怪しく光って一件の留守電が入った。翠からだった。浜崎の浮気が原因で離婚する事になったと。