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スカイグレイ
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novelistID. 8368
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人魚

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桶のなかで元気良く泳いでいた小さな魚は、箱の中に放たれました。すると一瞬の後に、少し離れたところでこの様子を見るともなしに見ていた人魚は恐ろしい速さで魚に迫り、あっと言う間に咥え、見物客が呆然としている間に噛み砕き、一寸片手で口を押さえたかと思うと、飲み込んでしまいました。

さあさ、こんな小魚で人魚の腹は満たされませぬ。もっと大物をお望みだ……。

 次に出て参りましたのは、先程の魚よりも二周りほど大きな魚でございます。これもまた人魚の箱の中に放たれました。またもや人魚は魚に迫りましたけれど、一飲みにするには難儀する大きさだと思ったようで、そのなよやかな白い腕を伸ばしますと慌てふためいて逃げようとする魚を両手でしっかりと捕まえ、口元に持っていったのです。何をするのかと思えば、嗚呼、悲しくも予想通り、その朱唇を開き、意外なほど鋭い歯を覗かせて、魚の頭を喰いちぎってしまいました。魚の頭に齧り付く瞬間の人魚の表情を、わたしは忘れないでしょう。歯を突き立て、骨を砕き、肉を貪る。その恍惚とした表情は、まさに動物の顔でございました。
 きゃあ、とか、いやあ、とかいう声に混じって、どさりと何かが倒れる音が聞こえました。大方、気の弱い方が失神でもなさったのでしょう。そんな中で、わたくしは奇妙な優越感を覚えておりました。これほど美しい人魚も、所詮はただの動物でしかなかったのです。獲物を求めて水中を彷徨い、飢餓と戦い、食べることに快楽を感じる下等な生き物に過ぎなかったのです。
 得意になっていられたのもほんの束の間、わたしは、はたとあることに思い至りました。
それでは、わたしはこの人魚と何が違うというのでしょう? その日食べる分を稼ぐのもやっとで、常にお金に飢えている。それならば男を惑わすほどの美しさを持っている人魚の方が、わたしよりも幾分か生き物として高等なのかもしれません。
 この人魚にはひょっとすると、一生を添い遂げると心に決めた男の人魚があったかもしれません。子どもさえあったかもしれません。わたしがそうと知らないだけで、わたしよりももっと楽しく、幸せに生きてきたのかもしれません。
 そう考えると、腹立たしさや憎しみや、何か熱くどろどろとした感情が込み上げて参りました。これが嫉妬というものでございましょうか。いっそ理性を失って、この感情の流れに身を任せてしまいたい、そう思った途端、わたしはわたしの意識を手放していたのでございます。
 はっと我に返ると、わたしは先程まで魚が入っていた桶を、人魚の箱に向けて今にも振り下ろさんとしているところでございました。腕はがっちりと警固の者に掴まれております。それはそれは強い力で、身動きも儘なりません。しばらく抵抗しておりましたが、いくら同じ女と雖も相手はわたしよりも頭一つ分背が高く、体格も良いのですから、敵うはずもございません。ようやく諦めて動きを止めると、突如、人魚の顔が目に入って参りました。
 掴まれたままの腕が痺れて感覚がなくなったのにも気付かないほど、わたしは人魚の顔に見惚れておりました。すっと通った鼻梁に、白い頬。紅を塗ったかのような赤い唇。そして、青い虹彩。
 その色は、人魚に相応しく海の底、というよりも太陽が沈んだ直後の空を思わせる藍でございます。じぃっとこちらへ注がれているその眼差しにこもった感情は一体何なのか、うかがい知ることはできません。憐憫か、嘲弄か、それともただの好奇心か……。
 そんなことを考えているうちに、わたしの腕はさらに締め付けられ、身体は何処かへ引き摺られて行きます。放して下さい、と言う力もなく、されるがままでございます。いよいよ扉の前まで連れて来られ、外へ突き飛ばされるその直前、わたしは見て、聞いたのです。
 人魚はわたしを真っ直ぐに見て、にやりと笑いました。それから、短く鋭い歯を剥き出しにし、耳障りな声をあげて、哂ったのです。
 部屋から摘まみ出されたわたしは、その場にへたり込みました。奇妙な安堵感に襲われたのでございます。あのような哂い方を、人間のように高等な生き物がすることはございません。人魚などやはり下品で下等な外道に過ぎないのです。人間のように思慮深く、優しさに溢れたものではないのです。
 道の真ん中、扉の前で座り込んでいるわたしを、誰も気に留めません。思慮深く、優しさに溢れた方は、たまたまここに居られないのでしょうか。待っていれば、どなたか声を掛けてくださるかもしれません。いえ、きっとこんな哀れな女に声を掛けずにはいられないに決まっております。きっと、きっと、きっと……。
 ぽたり、ぽたり、と抱え込んだ膝の上に雫が落ちました。それが涙だとわかるのに、しばらく時間を要しました。何故わたしは泣いているのでしょう。人魚には勝っていることが明らかになったというのに。哂われたことが余程悔しかったのでしょうか。いえ、そういうことではないのです。ただ単に、この境遇が恨めしいのでございます。器量が悪いから、お金がないから、学がないから。今わたしがここにこうしているのはそういった理由からでございます。わたしは、美しい容姿も、お金も、学歴も、何も持っていない自分自身が悲しいのです。
 この都では、誰もわたしを見てはくれません。誰もわたしの持つ力を知ってはくれません。故郷に帰ってもそれは同じでございましょう。一介の働き手としてではなく、わたし自身を認め、必要としてくれる人は一体どこにいるのでしょう。それともどこにもいないのでしょうか。この広く、冷たく、哀しく、浅はかで無味乾燥な世界でわたしは一人、生きていかなければならないのでしょうか。
 いっそあの人魚に成り代わってしまいたい。わたしはそう思いました。人魚には、美しい身体があるのです。それは人に見せるものであり、人を魅するものなのです。そして、興味本位とはいえ、観てくれる人が大勢いるのです。
今、わたしはどうしようもなく孤独です。けれど、自ら命を絶つことは決して致しません。
このままでは終われないのでございます。どんな手段を使っても生きていくという覚悟だけはしております。どれだけ人に疎まれようと、憎まれようと、幸福になるために、いえ、生きるために生き抜くのです。
涙と鼻水に塗れた顔を袖口で拭い、立ち上がります。

親の因果が子に報い、可哀相なのはこの子でござい、さあさあ寄ってらっしゃい見てらっしゃい、お代は後で結構だよ……。

わたしは、どこからともなく聞こえてきた口上を背中で聞きながら、明るく眠ることを知らない都の大通りへ向かって歩き始めました。
ふと上を見ると、一面に広がっているのは人魚の虹彩と同じ藍色でございました。わたしはこの先、空を見るたびにあの人魚のことを思い出すのでございましょう。
 けれどわたしはいつか、人魚を哂いに行ってやるのです。そして、箱の前でこう言ってやるのです。お前よりも私の方がずっと幸せなのだ、と。 




作品名:人魚 作家名:スカイグレイ