花少女
宮子と別れて大通りを歩いていると、交差点のところで後ろから声を掛けられた。振り向くと、そこに立っていたのは正二だった。よう、と正二は右手を上げ挨拶をした。厳つい顔に子供のような邪気のない笑顔をたたえて、足を止めた私の方へ歩いてきた。私も自然表情を緩め、正二が来るのを待ち受ける。
「今、お前の妹と会ってきたところだよ」
私は正二にそう告げた。正二は意外そうな顔もせずに、それが当然であるかのように一つ肯いた。その首肯の意味が私には理解しがたかったが、問う暇もなく正二が口を開いた。
「宮子の奴、今日はいやにめかしこんでなかったか。あんな派手な簪なんかつけて。似合わないから止めろと言ったんだが、聞きやしない」
「そうかな。綺麗な簪だったと思うが。桜の」
「桜?」
正二は惚けた様な顔をした。
「桜だったのか、あれは」
「そうだと思ったけどな。違ったか」
「いや、」
正二は首を傾げて、語尾をぼかした。彼には珍しい、曖昧な態度だ。私は人ごみを避けるために建物の壁際まで歩き、正二がついてくるのを待った。そして、宮子の簪を思い出そうとした。五枚の花弁、その可憐な様子。確かにあれは桜だったはずだ。正二は私が彼の前から移動したことにようやく気づいた様子で、人の間を縫ってこちらにやって来た。その表情はすでにいつもの彼のものに戻っている。
「そうだ神崎、お前職場には慣れてきたか」
「ああ。その節は随分世話になった。有難う」
私が頭を下げると正二は、いいんだいいんだ、と大きな手を左右に動かした。宮子のものとは違う、無骨な逞しい手。私は時折、彼らが同じ両親から生まれた人間であることに疑問を感じる。
「ああそうだ、正二。お前の妹は、桜が好きなのか。簪も桜だったように思えるし、桜の木をずっと見つめていた」
宮子の視線の先にあった、桜の若木。彼女が見たという、その新芽。
「ん、桜か」
正二は腕組みをし、片方の足に重心を置いた。
「いや、特に好きだという話を聞いたことはないな。宮子には聞いたのか」
「ああ。分からないわ、と」
私の答えを聞いて、正二は快活に笑った。
「あいつの十八番だな、その言葉は」
正二はがっしりとしたその身体を揺するようにもう一度笑うと、私に歩くように促した。私たちは再び交差点へと舞い戻る。雑踏の中で私に逃げ場はなかったが、正二が傍にいる分には何の心配もせずに済むような気がしていた。
信号を待つ間に、正二は歯切れのよい口調で、自身の近況を話した。彼の話によると、近頃近所で猫が数匹殺されているのが見つかったらしい。警察は精神異常者の仕業であると断定したそうである。また、正二は自分の働いている環境について逐一詳しく教えてくれたが、なんでも上司の手際が悪すぎて、正二にまでそのとばっちりが飛び火することがあるそうだ。正二はそれらのことを、信号が青に変わるまでの数分の間に喋り終え、信号が変わってからも、宮子について私に色々と吹聴した。
「いいか神崎、宮子の奴と付き合うなら、いちいちあいつの行動について深く考えないことだ。あいつはおれやお前とは違って、理屈で生きてはいない。直感と感覚の人なんだよ、要はな」
「ああ」
「まあ、お前と宮子を引き合わせたのはおれみたいなものだからな。困ったことがあったらいつでも相談に乗るよ。ああそれと、お前の職場の、何といったかな、髭の長い」
「坂田教頭」
「そう、そうだ坂田先生だ。あの人によろしくと言っておいてくれよ。なんと言ったって、おれはあの人に随分と世話になったからな」
「分かった」
私が肯くと、正二はそれじゃあまたな、くれぐれもよろしく、と言い残して、私の前から颯爽と立ち去ってしまった。いつものように、仕事が忙しいのだろう。
その後姿が人波に呑まれたのを確認し、家路を急いだ。春風に誘われて浮かれたような街中を一人で歩きながら、宮子の簪のことが頭から離れないように思われた。