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花少女

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 それから何度か、妹の病室で青島月路と鉢合わせることが多くなった。どうも、彼は私と顔を合わせないようにするのを止めたようだ。その理由は分からないが、私としては信用を得たようで少し嬉しい。とは言っても、彼の態度は最初の頃からほとんど変らなかった。私を見ると軽く挨拶をする程度で、すぐに妹との話を切り上げてそそくさと帰ってしまうのだ。それも、名残惜しそうに妹を振り返りながら。私はいつも妹の病室の窓際に座るので、彼が病院を出て行くときにこの病室を見上げているのを知ることが出来る。私の姿を認めると同時に、彼は歩みを速め、すぐに視界から消えてしまう。学校で会っても、彼から話しかけてくることは全くなかった。
「近頃青島君、どうも様子がおかしいわね」
 仰向けに横たわって、林檎を持った左手を天井にかざした姿勢で、妹が言う。私は何といえばいいか分からなかったので、とりあえず肯いた。
「青島君、お兄様のことを避けてるみたいね」
「やっぱりそう見えるか」
「ええ。……お兄様も気付いてらしたの」
 意外そうに目を丸くする妹に、私は苦笑した。一体私を何だと思っているのか。
「青島君、ああ見えて結構人懐っこい人なのに。お兄様、青島君に避けられるような心当たりでも?」
「ないよ、そんなこと」
 そうよね、お兄様ですものね、と妹はくすりと笑う。花のような笑顔。花のような……。
「…………」
 白い花の影を思い出して、思わず背筋が冷たくなる。妹はそんな私の恐怖に気付かないで、話を続ける。林檎がその小さな手の中でくるりと一回転する。
「そういえばお兄様、宮子さんとは上手くいってらっしゃるの」
「う、上手くいくというのはどういうことだい」
 うろたえて、思わず声が裏返ってしまった。私と宮子の付き合いは妹の知るところでもあるが、私はまだこういった質問に慣れていない。それもひとえに、私の人付き合いの希薄さに所以するのだが。妹はしかし、私の様子に微笑むこともなく、真面目な顔つきを保っている。彼女の漆黒の瞳は、ただ林檎一点に注がれたままだ。
「上手くいく、というのは、距離を保ちつつ、その人の心の中にいつでもいることが出来るようになる、ということよ」
「そういうことなら、……そうだな。まあ、それなりに、かな」
「…………」
 妹の、林檎を回す手が早くなる。沈黙したままで、その視線は逸らされることがない。そのだんまりの意味が私には分からない。妹は時たま、私には理解できないタイミングで思考の糸に絡まってしまうことがあった。彼女自身が紡いだ糸に、自らがとらわれた状態だ。そうなってしまえば、彼女の意識をこちらに向けるのには一苦労を要する。
 赤い林檎が、くるくると回る。回されているのではなく自ら回転しているように、意思を持ったように、熟れた林檎が回り続ける。それを目で追いながら、私は妹を待つ。彼女がこちら側に帰ってくるのを待つ。
 白い指、黒い髪、赤い、林檎。
 机上に置かれた時計だけが、忠実に時の流れの中にいるようだった。私と妹と林檎は、その流れに乗り遅れた、遭難者のようだった。時間は常にそこにあるわけではないのだと、直感のような考えが浮かぶ。妹のベッドを境に、今この世界は隔絶されていた。誰もこの世界には踏み入ることが出来ないのだと、頭の片隅、心の、どこか埃をかぶった奥のほうで、誰かが呟くのが聞こえた。
 妹の回す林檎から、微かな香りが散らされる。林檎の白い花。妹の体内で育つ、白い花。その花弁が、妹をいつか支配する。妹はきっと、白い花に埋もれて、その香りの中で、眠るように、安らかに。
 夢の中にでもいるような、とはこういう感覚のことを言うのだろう。時間に取り残された今、哀しいのに、それ以上に美しい情景だけが私を支配しようとしていた。生きて、指を動かしている妹を前にして、彼女が動かなくなるその時を夢想してしまう私がいた。しかし、そうして動かなくなる妹も、今ここにいて呼吸している妹も同じものなのだとは、到底信じることはできなかった。私は、花弁に埋もれ行く妹を夢に見ながら、それでも彼女が本当にそうなってしまうことはあり得ないし、あってはならないことなのだと、固く信じていたのだ。
 夢の中の妹は、本当に人形のように白い肌をしていて、そこに生気は見られない。とても綺麗な肌をしていて、まるで上質な絹を見ているよう。夢の中で、妹は、もう一言も発しはしない。ただその桜色をした艶のある唇が、かすかに開いているのみだ。私はその傍らに立って、泣くことも笑うこともせず、仮面をつけた顔で、妹を見下ろしている。彼女の唇が動くのを、動かないことを承知した上でそれでも、じっと待っているのだ。白い花々が彼女の屍体を彩っている。黒くて未だ豊かな髪が、美しいコントラストを作り出している。林檎が回り、私の夢想を加速させる。冷たい、魂の宿らない妹の裸体が、いくら目を凝らそうとも私の目には見えない。白い花が、その神聖さを汚すことを許しはしない。汚れきった私には、彼女に触れる権利はないのだ。だから、せめて。
 この、花にだけでも――。
「お兄様」
 私が伸ばしかけた手は、現実に阻まれた。夢想から覚めて、私たちは時の流れの中に一瞬にして組み込まれる。
 妹が、私を見ていた。
「お兄様は、宮子さんと結婚なさるのでしょう」
 その言葉で、私は忘れかけていた現実を取り戻した。いや、違う。私は忘れていたかったのだ。妹が持つ非現実性で、私の現実を覆い隠して欲しかったのだ。それに気付いて、私は一人赤面する。
「お兄様、」
「……ああ、多分、いつかはそうなるよ」
「そう……」
 妹は、生きていて呼吸をしている現実は、私にそのため息に似た言葉を吹きかけた。林檎の香りが、一段と濃くなる。ああ、熟れすぎている、と私はそんなことを思った。
作品名:花少女 作家名:tei