花少女
1
その日、私は病に臥せっている妹を見舞いに、病院まで出かけた。途中でちょっと寄り道をして、妹の好きな鮮やかな色をした林檎を二つ、選んで買った。電車の中で読みかけていた文庫本を五頁ほど読み、バスに乗り換え、坂を少し上ると漸く、巨大な灰色をした、重苦しい建物の門までたどり着いた。何時来ても、あまり気持ちの良い雰囲気ではない。
受付のところで見舞いの旨を伝え用紙に名前を書き、階段を上った。妹の病室は五階にある。院内は静かで、時折どこかで人の咳き込む音がしたがそれもすぐに止んでしまった。いつもはこの十倍は賑やかであるのに、と不思議に思った。
病室の扉を軽く叩くと、内から「どうぞ」、と落ち着いた声で応答があった。扉を開けると、妹は横たわっていたらしい寝台から半身を起こして、私を見た。見るなり、その白くて小さな顔に喜色を湛え、口元をほころばせ、明るい透き通った声で、歌うように言った。
「お兄様」
「やあ、」と、林檎の袋を彼女にも見えるように掲げながら、私は深刻な調子にならないように気をつけながらたずねた。
「調子はどうだい、小夜子」
妹は大きな黒い瞳で、寝台の傍に椅子を運ぶ私を見つめた。楽しそうな顔つきをしている。
「ご覧のとおり、そこそこに良いわ」
「そうか」
私は内心の安堵を外に出さないで椅子に座り、彼女の机に林檎を置いた。
「それは良かった」
妹は私の様子をじっと観察しているようだったが、林檎を見てまた笑った。
「お兄様も、林檎を見る眼がおありなのね」
「林檎を見る眼、かい」
首を傾げる私に向かって、ええ、と妹は肯いた。もう一度、自分がついさっき購入した二つの林檎を眺めてみる。小さな机の上に本や筆記具と並んで林檎が置いてある様は、まるで一つの絵画のごとく、私の目に写った。落ち着いた色合いの机上に置かれた林檎。それは、自ら発光しているかのようにつやつやと、世界を反射していた。
妹はそれを見つめ、呟く。
「綺麗な色だわ」
「そうだね。今から食べるかい」
妹は私の軽い言葉を聞いて、驚いたように目を大きくした。
「お兄様は、林檎を見る眼はおありでも、林檎の美しさを見る眼は持っていらっしゃらないのね」
「林檎の美しさ、」
「ええ」
意味が飲み込めずに聞き返した私に、妹はただ肯いた。
彼女は漆黒の瞳と、瞳と同じように艶のある黒髪の持ち主だ。その髪は今、胸の辺りまで伸びてしまっている。散髪に行くほど回復していないようだ。しかし手入れはきちんとしているようで、時折さらりと肩から背に滑り落ちるそれは、ここに来る前と変わらない美しさを保っている。真っ白い病室と真っ白い寝台、そして妹が着ている衣服も白であり、更に彼女の顔もまた日の元に出ない所為で青白かったが、髪と瞳だけが濡れたように黒々としていて、外界から浮き上がっていた。しかしそれは決して、目だって突出しているということではない。外界の清涼な空気と調和し、静寂を絵に描いたような雰囲気を漂わせているのである。その静けさは、林檎が纏っているものと同じ、一種絵画的なものだった。
「お兄様はこの林檎を見て、何ともお感じにならないの」
「いや、そういうことではないよ」
私が曖昧に言葉を濁すと、妹は納得しかねる様子を見せた。
「でも今、食べてしまう、と言ったじゃない」
「だって、林檎は食べるものだろう」
「そうかもしれないけれど、もう少し経ってからでも遅くはないわ。林檎に脚は生えてないもの」
妹は時折見せる頑なさで、林檎の鑑賞を主張した。私も特に異論はなかったのでおとなしく譲ることにして、妹の様子を見守った。彼女は林檎を手にすることはなく、ただ寝台の上からじっと見つめている。
「そんなに林檎が珍しいかい」
「そういうわけではないわ。ただ、この林檎は特別ですもの」
「特別」
「ええ」
薄く微笑んで、妹は言った。
「お兄様が下さったのですから」