窓越しランドスケイプ
1
冬も終わるころ、そいつはやってきた。
「や。今日も寒いな」
そう言って右手に持ったビニール袋を広げて見せてくる。
「帰り際に、プリン買ってきた。食おうぜ」
その袋を僕に押し付け、手早く靴紐を解いてそいつ―――東雲(しののめ)維人(いと)はさっさと部屋の中へと入っていった。僕は扉に鍵を掛けその後に続く。
「何でプリンなんだ。この寒い中にそんなもの買って来るな。肉饅(にくまん)とかだろ、普通」
「お前は、女。肉饅は似合わねえよ。……それに温かいものを買ってきても、ここに来るまでに冷めるだろう?氷雨の部屋にはレンジはねえし。だったら最初から冷えているものを買ったほうが計画的だろう?」
維人は僕を確固として「女の子」と認識している数少ないうちの一人だ。数少ない、と言っても世界的に見ればかなりの数がいるのだろうが、私の知り合いでは数えるには両の手で事足りてしまう。
「はぁ……」
ため息をついて、袋の中身を冷蔵庫に押し込んだ。中には最低限の食材と水だけが入っている。
「ん、食わないのか?」
ベッドの上に腰掛けて雑誌を読んでいた維人がきょとんとした顔で問い掛けてくる。隅に置いてある小さなテレビは電源が入っていて、夕方のニュースを流している。
「夕飯が先だろう。……ったく、たまには自炊しやがれ」
バタン、と勢いよく冷蔵庫の扉を閉める。維人は「たまには、ね」と言って雑誌に目を戻した。私はその横に腰掛け、徒然と中空を見つめ始める。そうすることで私の意識はここから離れる。耳をつくテレビの音も、ページをめくる音も、外の喧騒も。全てが、昔にあったことのように感じられる。
僕には、性別がない。
それは肉体的なことではなく、精神的な意味で性別がないのだ。
「欠人(かけびと)」という人種がいる。読んで字のごとく、何かしら人間としての機能が欠けている人々のことだ。
「なあ、維人」
言って腰を上げる。
「なにさ」
維人は雑誌に目を落としたまま答えた。だが、そんな事でいちいち不快を覚えるほどの仲ではないのでそのまま続ける。
「金、あるか」
「持ってると思うかい?」
肩をすくめて、即答だ。しかも普段からは考えられない口調。まあ、はじめから期待なんてしていなかったのだ、一応の確認、とでも言おうか。
「ところで、なんでさ」
「いい。持ってないなら関係の無い話だから」
床に放り出された携帯を拾って言う。リダイヤルを開き、木枯(こがらし)のナンバーを引き出し、通話ボタンを押す。決まりきった呼び出し音が三回も鳴らないうちに、木枯は呼び出しに応じた。
『どうした』
いつも通りの第一声。平淡な声は聞き間違えようも無く木枯本人のそれだ。
「今、空いているか。たまには飯でも一緒にどうだ」
維人が雑誌から目を離しこちらを見てきたが、無視する。
『悪くないな。偶然、こちらはちょうど手持ち無沙汰になったところだ。更に言えば、臨時収入を取ったばかりでな……、そこそこの店ならば食わせてやれる』
「ホントか?なら今からそっちに向かうよ。どこにいるんだ」
『荒木の駅前だ。―――こちらで店は見繕って置こう。駅前に着たら連絡をくれ』
「ああ。じゃあ」
終話ボタンを押し、ベッド脇のスタンドに掛けてある上着を取って羽織る。当然、維人の視線にも気付いているが、気に留めることはしない。
「ひょ―――」
「帰るとき、鍵、よろしくな」
何か言わんとする維人を言葉で制して、外に出る。冷たい冬の空気が頬の肌を突く。吐き出す息は白く、しかし風がない分身震いするほどの寒さには感じられない。
「さてはて」
荒木の駅ってのは、どっちだっけな。
白い息を吐きながら、辺りを見回しつつ歩く。
街はまだ明るい。眠りに着くには早い時間だ、外を歩く人の影もかなり見ることが出来る。しかし、それも帰路に着く頃にはまばらになるだろう。
駅に着いたのは部屋を後にしてからほんの十数分後だった。
上着のポケットに突っ込んだ携帯を取り出し、リダイヤルから木枯へ電話を掛ける。今度は呼び出しが鳴り始めるのとほぼ同時に、通話が始まった。
『着いたか』
「ああ。遅かったかな」
『いやはや、これまでに比べれば、そこそこと言ったところだ』
「そいつはよかった。で、どこに行けばいいんだ」
「行く必要など無い。オレはお前の後ろにいる」
電話から流れる音と、背後からした音がダブった。知らず、振り向く。
「……居たなら、声掛けろよ」
「すまんな。しかし、オレもまた今お前に気付いたのだ。いたしかたあるまい」
そうか、と言って終話ボタンを押す。
「さて、行くとしよう」
先に歩き出した木枯に随って歩く。木枯の黒々としたコートは、夜の繁華街にはあまりにも不釣合いで、逆に、だからこそ人混みに分け入っても見失いはしない。と、言っても木枯は僕に気を遣っているのか、なるべく人混みを避けるように歩いていて、どうしようもないときはなるべく歩速を緩めている。
「なあ、そんなにゆっくり進まなくても大丈夫だからな?」
「なに、なに。気にするな」
……。
そのまま歩くこと数分。思いのほか目的地はすぐの所のあった。
「ここか」
「ああ。すまんがオレの気分で決めさせてもらったが、異論はあろうか?」
「お前の選択で、間違ったっていうメモは無い」
それを聞いて木枯は、安心した。とでも言いたそうに肩をすくめた。無意味な紳士だ。こいつと知り合ってからの記録で、厭と言うほど思い知らされたのはそれだ。勝手気ままに生きているように見せて、根底は紳士なのだから、どうしようもない。他人を省みない男が紳士なんて、矛盾も良いとこだ。
「ちなみに、今ならぶり大根なんかがお勧めだ」
「……。まあ、食えれば良いさ」
「む。それはいけない。食事とは活力をもたらす物だ。しかし、効率良く活力を求めたいのならば旨い食事を採るのが良い。なぜなら旨い、と言う感覚は脳を刺激して更なる食欲を―――」
「先、入るぞ」
始まれば長そうな談義を切り、引き戸を開け、暖簾をくぐる。内装はどこにでもある居酒屋のようにカウンター席と座敷の席が二十人分ほどある。外から見る限りチェーン店ではなさそうであったから、個人で持つには十分すぎる広さだろう。店員はカウンターの中に店長らしき親父さんと若い男。広い、と言っても声を張り上げれば一番奥の座席からでも十分にカウンターに届くから、注文をとる人間は必要ないのかもしれない。
「カウンターで良いだろ?座敷はあまり好きじゃない」
問題ないよ、と木枯は返し、隅を選んで、二人並んで座る。メニューは紙切れに書かれて、壁の其処彼処に貼り付けられていた。
「とりあえず、芋焼酎を。それと」
「烏龍茶」
カウンターの中にいる親父さんが気前良く「毎度」と言うだけで答えた。若い男のほうは黙々と何かを焼いている。それをぼんやりと眺めているうちに、すぐに焼酎と烏龍茶が目の前に置かれた。
「―――ところで」
出された焼酎をちびちび飲みながら、切り出してきた。
「何だって、今日はオレを誘った。いつもお前は自炊してるじゃないか」
「理由、必要か?それ」
瓶で出された烏龍茶をグラスに注ぎながら、聞き返す。
冬も終わるころ、そいつはやってきた。
「や。今日も寒いな」
そう言って右手に持ったビニール袋を広げて見せてくる。
「帰り際に、プリン買ってきた。食おうぜ」
その袋を僕に押し付け、手早く靴紐を解いてそいつ―――東雲(しののめ)維人(いと)はさっさと部屋の中へと入っていった。僕は扉に鍵を掛けその後に続く。
「何でプリンなんだ。この寒い中にそんなもの買って来るな。肉饅(にくまん)とかだろ、普通」
「お前は、女。肉饅は似合わねえよ。……それに温かいものを買ってきても、ここに来るまでに冷めるだろう?氷雨の部屋にはレンジはねえし。だったら最初から冷えているものを買ったほうが計画的だろう?」
維人は僕を確固として「女の子」と認識している数少ないうちの一人だ。数少ない、と言っても世界的に見ればかなりの数がいるのだろうが、私の知り合いでは数えるには両の手で事足りてしまう。
「はぁ……」
ため息をついて、袋の中身を冷蔵庫に押し込んだ。中には最低限の食材と水だけが入っている。
「ん、食わないのか?」
ベッドの上に腰掛けて雑誌を読んでいた維人がきょとんとした顔で問い掛けてくる。隅に置いてある小さなテレビは電源が入っていて、夕方のニュースを流している。
「夕飯が先だろう。……ったく、たまには自炊しやがれ」
バタン、と勢いよく冷蔵庫の扉を閉める。維人は「たまには、ね」と言って雑誌に目を戻した。私はその横に腰掛け、徒然と中空を見つめ始める。そうすることで私の意識はここから離れる。耳をつくテレビの音も、ページをめくる音も、外の喧騒も。全てが、昔にあったことのように感じられる。
僕には、性別がない。
それは肉体的なことではなく、精神的な意味で性別がないのだ。
「欠人(かけびと)」という人種がいる。読んで字のごとく、何かしら人間としての機能が欠けている人々のことだ。
「なあ、維人」
言って腰を上げる。
「なにさ」
維人は雑誌に目を落としたまま答えた。だが、そんな事でいちいち不快を覚えるほどの仲ではないのでそのまま続ける。
「金、あるか」
「持ってると思うかい?」
肩をすくめて、即答だ。しかも普段からは考えられない口調。まあ、はじめから期待なんてしていなかったのだ、一応の確認、とでも言おうか。
「ところで、なんでさ」
「いい。持ってないなら関係の無い話だから」
床に放り出された携帯を拾って言う。リダイヤルを開き、木枯(こがらし)のナンバーを引き出し、通話ボタンを押す。決まりきった呼び出し音が三回も鳴らないうちに、木枯は呼び出しに応じた。
『どうした』
いつも通りの第一声。平淡な声は聞き間違えようも無く木枯本人のそれだ。
「今、空いているか。たまには飯でも一緒にどうだ」
維人が雑誌から目を離しこちらを見てきたが、無視する。
『悪くないな。偶然、こちらはちょうど手持ち無沙汰になったところだ。更に言えば、臨時収入を取ったばかりでな……、そこそこの店ならば食わせてやれる』
「ホントか?なら今からそっちに向かうよ。どこにいるんだ」
『荒木の駅前だ。―――こちらで店は見繕って置こう。駅前に着たら連絡をくれ』
「ああ。じゃあ」
終話ボタンを押し、ベッド脇のスタンドに掛けてある上着を取って羽織る。当然、維人の視線にも気付いているが、気に留めることはしない。
「ひょ―――」
「帰るとき、鍵、よろしくな」
何か言わんとする維人を言葉で制して、外に出る。冷たい冬の空気が頬の肌を突く。吐き出す息は白く、しかし風がない分身震いするほどの寒さには感じられない。
「さてはて」
荒木の駅ってのは、どっちだっけな。
白い息を吐きながら、辺りを見回しつつ歩く。
街はまだ明るい。眠りに着くには早い時間だ、外を歩く人の影もかなり見ることが出来る。しかし、それも帰路に着く頃にはまばらになるだろう。
駅に着いたのは部屋を後にしてからほんの十数分後だった。
上着のポケットに突っ込んだ携帯を取り出し、リダイヤルから木枯へ電話を掛ける。今度は呼び出しが鳴り始めるのとほぼ同時に、通話が始まった。
『着いたか』
「ああ。遅かったかな」
『いやはや、これまでに比べれば、そこそこと言ったところだ』
「そいつはよかった。で、どこに行けばいいんだ」
「行く必要など無い。オレはお前の後ろにいる」
電話から流れる音と、背後からした音がダブった。知らず、振り向く。
「……居たなら、声掛けろよ」
「すまんな。しかし、オレもまた今お前に気付いたのだ。いたしかたあるまい」
そうか、と言って終話ボタンを押す。
「さて、行くとしよう」
先に歩き出した木枯に随って歩く。木枯の黒々としたコートは、夜の繁華街にはあまりにも不釣合いで、逆に、だからこそ人混みに分け入っても見失いはしない。と、言っても木枯は僕に気を遣っているのか、なるべく人混みを避けるように歩いていて、どうしようもないときはなるべく歩速を緩めている。
「なあ、そんなにゆっくり進まなくても大丈夫だからな?」
「なに、なに。気にするな」
……。
そのまま歩くこと数分。思いのほか目的地はすぐの所のあった。
「ここか」
「ああ。すまんがオレの気分で決めさせてもらったが、異論はあろうか?」
「お前の選択で、間違ったっていうメモは無い」
それを聞いて木枯は、安心した。とでも言いたそうに肩をすくめた。無意味な紳士だ。こいつと知り合ってからの記録で、厭と言うほど思い知らされたのはそれだ。勝手気ままに生きているように見せて、根底は紳士なのだから、どうしようもない。他人を省みない男が紳士なんて、矛盾も良いとこだ。
「ちなみに、今ならぶり大根なんかがお勧めだ」
「……。まあ、食えれば良いさ」
「む。それはいけない。食事とは活力をもたらす物だ。しかし、効率良く活力を求めたいのならば旨い食事を採るのが良い。なぜなら旨い、と言う感覚は脳を刺激して更なる食欲を―――」
「先、入るぞ」
始まれば長そうな談義を切り、引き戸を開け、暖簾をくぐる。内装はどこにでもある居酒屋のようにカウンター席と座敷の席が二十人分ほどある。外から見る限りチェーン店ではなさそうであったから、個人で持つには十分すぎる広さだろう。店員はカウンターの中に店長らしき親父さんと若い男。広い、と言っても声を張り上げれば一番奥の座席からでも十分にカウンターに届くから、注文をとる人間は必要ないのかもしれない。
「カウンターで良いだろ?座敷はあまり好きじゃない」
問題ないよ、と木枯は返し、隅を選んで、二人並んで座る。メニューは紙切れに書かれて、壁の其処彼処に貼り付けられていた。
「とりあえず、芋焼酎を。それと」
「烏龍茶」
カウンターの中にいる親父さんが気前良く「毎度」と言うだけで答えた。若い男のほうは黙々と何かを焼いている。それをぼんやりと眺めているうちに、すぐに焼酎と烏龍茶が目の前に置かれた。
「―――ところで」
出された焼酎をちびちび飲みながら、切り出してきた。
「何だって、今日はオレを誘った。いつもお前は自炊してるじゃないか」
「理由、必要か?それ」
瓶で出された烏龍茶をグラスに注ぎながら、聞き返す。
作品名:窓越しランドスケイプ 作家名:まーす。