灰色の双翼
1.5−1
ゆったりとした流れの中でまどろんでいたユイスは、やがて上方へ引き上げられていく感覚を覚えて目を開けた。
ゆっくりと開かれるまぶたから鮮やかな緑色の双眸がのぞき、それが二、三度瞬きを繰り返す。
「ここは……」
目を開けて、真っ先に飛び込んできたのが、見覚えのない真っ白な天井。
そういえば自分たちはセルモーザに来ていたのだということを思い出して、同時にセルモーザの家はどこも真っ白だったことも思い出す。とするとここは宿屋の部屋の中だろうか。そう思いかけて、思考がはたと止まった。
自分たちは、セルモーザで果たして宿を取っただろうか?いや、とってはいないはずだ。なぜなら……。
思い出しかけて、ユイスは突然がばりと跳ね起きた。一気に胸の奥から吐き気がこみ上げてくる。
そうだ。自分たちは宿なんて取っていない。途中で捜し求めていたレイスの姿を見つけて、それを追っていったら招待されたのだ。彼の主だった、ヴァシルという恐ろしい男の館に。
そして。
はっきりと、ユイスは思い出してしまった。こみ上げてくる吐き気を無理やり押さえようとして苦しい。
メリアは、ヴァシルに立ち向かっていったレイスの刃からヴァシルをかばい、それを受けて倒れた。そしてレイスは、ヴァシルに刃を向けたその罪によって、アルス少年に塵と消されてしまった。
そう、まるで何も初めからなかったかのように。
その事実に自分は絶望して、あとは何も覚えていない。あのあとヴァシルがどこへいったのか。そして。
はっと気が付いて、青ざめた顔でユイスは部屋の中を見回した。
その壁は天井と同じくどこも真っ白で、窓はなかった。家具はあることにはあるが、ほとんど必要最小限で、簡素なものばかり。僅かにほっと、ユイスは胸をなでおろす。
もしかしたらここがまだヴァシルの館の内なのではないかと思ったからだ。けれどここはヴァシルが用意した部屋とは違う。ほんのすこしだけではあるが、ここがヴァシルの館である可能性は薄れてくれた。
「でも、どこなんだろう、ここ……」
自分が気を失っている間に誰かがここへ移動させたことは間違いない。ただ、自分が助かったのだとは思えなかった。自分を移動させたのがヴァシルであるのかそれとも別の人間であるのかはわからない。むしろヴァシルである可能性のほうが高いだろう。
もう一度、ユイスは辺りを見回す。それから恐る恐るベッドから這い出て、床に足をつけた。今まで気が付かなかったが、服もいつのまにか別のものに着替えさせられている。ただ白いだけのローブみたいなもの。見たところ履物はないらしく、仕方なく白い無機質な床を裸足で踏んだ。ひたひたと、やや冷たい床にユイスの足音が微かに響く。
ひとまず何か自分が身につけていたものはないかと手近にあったクローゼットを開いてみたが、特に何もなかった。他の家具の中も同じ。ほとんどが何も入ってはおらず、空っぽのまま。むしろあまりに寂しい部屋に便宜的に置いてあっただけのものなのかもしれない。
少しだけ何かを見つけることを期待していたユイスは、小さくため息をつくと、それらの家具たちからは視線をはずした。
部屋の中にあるのは、あとはおそらく廊下に繋がっているのだろうと思われる扉が一枚だけ。他は何もない。窓すらもない。ただ一面が真っ白な壁。
一瞬ユイスは考えて、結局扉の前へと向かった。おずおずと、扉の引き手に手をかけようとして。その直後、シュン、という音を立ててその扉が自動的に横にスライドした。
驚いて慌てて身を引くと、再びその扉はシュン、という音を立てて元に戻った。
ぱちくりと、その光景を見て、ユイスは目を瞬かせた。一瞬何が起こったのか理解できなかった。バクバクと心臓が激しく鳴っている。目の前の扉が勝手に開いて、勝手に閉じてしまった。
これがもしガルグで過ごしてきたレイスだったのならば、そうたいして驚かなかったのかもしれないが、何も知らないユイスはその場でしばし硬直した。こんな扉は、ユイスのいた世界には存在しないものだった。
しばらくそのままでいたユイスは、やがて恐る恐る扉の前にまた一歩、踏み出した。すると扉は再びシュン、という音を立てて開いた。今度は閉じることはなく、その先には薄暗い廊下が続いている。
そろりと扉の影からユイスは部屋の外を覗いてみた。が、見える範囲では廊下には誰かがいる様子はない。
だれかがいたならいたでここが一体どういう場所なのか位はわかったのだろうに、また手がかりはなし。しかし一つだけ分かったことがある。扉が開くということは、この屋敷の主にはユイスを拘束する気はないということだろう。それがわかっただけでも、十分だ。
「とにかくここにいても何も分からないし、行ってみるしかないよね……」
意を決して、ユイスはそのまま壁にへばりつくような形で廊下に足を踏み出す。同時に背後でシュン、と扉が横にスライドして閉じてしまった。びくりと肩を震わせて振り返ると、もうそこは辺りの銀色の壁と同化してしまって、一見しただけではそこに扉があるようには見えなくなっていた。
ごくりと、ユイスは口内に溜まっていた唾液を嚥下した。
再び壁伝いにそろそろと足音を忍ばせて前に進み始める。冷たい銀色の床が、一歩進むたびにユイスの素足から熱を奪った。
廊下は永遠に続いているかのように長かった。辺りは薄暗く、数メートルおきに小さな光の塊のようなものが浮かんでいて、ほのかなその明かりが辺りを照らしてはいるが、先はまったく見えてこない。
どこまで続いているのだろうかと薄暗い中で壁にしがみつきながらユイスが歩いていると、ぱっとあるところで道が急に明るく照らされた。数メートルおきに置いてあった光の塊がいつのまにか消えて、廊下全体が明るくなる。
「な、何……?」
急な変化におどおどと辺りを見回していると、先ほどと同じようにユイスのちょうど右手にある壁がシュン、という音と共に再び開いた。
そしてその部屋の中から、獣の唸り声のような重たく低い響き。思わず、その音に身を震え上がらせた。まるで中から巨大な化け物でも出てきそうな。
「まさか罠、とかじゃないよね……?」
そんな不安を抱いてびくびくとしながら、それでもユイスは部屋の中をちらりと覗き見る。
扉の向こうは何に使うのかよく分からない大きな鉄の箱やら、天井から垂れ下がった何枚もの白い布などに遮られていてよくは見えなかった。
けれど、その布越しに廊下の光とは違う薄明るい青緑色の光がこぼれてきている。明らかに自然の光ではない、不気味な色。その色合いに気味の悪さを感じて、一歩後ずさったときだった。
『……イ』
微かに聞こえたその声に、ユイスは弾かれたように顔を上げた。だが辺りには誰の姿もない。もう一度なにか聞こえないかと耳をそばだてる。
『ユ、イ……』
ほんの微かな呼びかけ。しかしユイスにははっきりと聞こえた。
「レイだ」
間違えようのないレイスの声。それはつまり、彼の存在の証。
「レイ、生きて……! 無事だったんだね!」