もふ恋。
「ふうせんちょーだいっ」
無邪気な笑顔で手を差し出す子供に、わたしはにっこり笑って真っ赤な風船を差し出した。
けれどその子にはわたしの笑っていようと怒っていようと見えないだろう。なぜならわたしは着ぐるみの中に入っているからだ。
わたしが着ているのはイベントで使う薄茶色の犬の着ぐるみだ。着る前に撫でさすってその毛並みを確認して、一番いいものを選んだ。ブラシも掛けて毛玉もとって、毛並みも整え済みだ。
わたしが思いついたのは、この着ぐるみを来て彼に会うということだった。
直接顔を見なくてすむというワンクッションをおける上に、彼の好きな犬だから嫌われることもないだろうという完璧な作戦だ。
狭い視界から店内の壁掛け時計を眺めると、もうすぐ18時。きっちりその時間というわけではないから、もう彼がいつ来てもおかしくない。
準備は万端、けれど心の準備だけが何度整えようとしても整わなかった。
ドキドキと心臓が鳴るのが体内でわかるけれど、抑えようと胸に手をあてても、着ぐるみの厚みが邪魔をして手のひらにはそれがまったく伝わらなかった。
客寄せに風船を配りながら、いつも彼がくる方向をちらちらと気にする。
「えいやっ!」
うわっ。
よそ見をしているとやんちゃな男の子にタックルを食らった。よたよたとたたらを踏んで、こらー!と手を振りあげて子供を威嚇する。
わーと笑いの混じった声を上げて男の子が走って逃げた。
まったくもう。子供たちがいなくなったところでため息をついて振り返ると、目の前に彼が立っていた。ちょっと、不意打ち……!
「へー、今日は着ぐるみキャンペーンなんかやってるんだなあ」
のんきに着ぐるみのわたしを見ている彼とは対照的にわたしは大パニックである。ただでさえ心の準備っていうやつが! しかも足元でラッシーがわんわんと威嚇している。あの、不審者、いや不審犬じゃないからねラッシー!
いつものように彼はラッシーのリードを繋いで待機させるとクレーン台へ向かう。
わたわたとしてしまうが、これがチャンス。むしろそのまま見送ったらなんのために着ぐるみに入ったのかわからない。勇気を振り絞った。
「あの……!」
スルーされた。
しまった、着ぐるみの中からじゃ、声がくぐもって届かない……!
着ぐるみでは基本的にオコサマの夢を壊さないためにもしゃべってはいけないから今まで気付かなかった。
どうしよう、でも迷ってる暇はない。
わたしはがばっと着ぐるみの頭を取った。ひょこんと勢いで頭上の耳が揺れる。そう、ちょこんと先の垂れたコリー耳。念には念を入れて着ぐるみの頭の下にも耳付きにしてあったのだ。余談だけれどこれは自作であり、もふっとしたしっぽは流石に着ぐるみの中で邪魔になるので断念した。せっかく手触りのいいもふが出来たのに!
彼がきょとんとした顔でわたしを見る。
そして見つめられてふと気づく。ああああんまり見られたくない……正直汗だくでメイクもなにもあったものじゃないしひどい顔だきっと……!
それでもわたしはもこもこの手で着ぐるみの腰にぶら下げていたお茶猫をぎゅっと握りしめた。多分彼の視線は主に頭につけた耳に行っているだろうから、作戦も成功のはずだと自分に言い聞かせる。
「あの、ぬいぐるみ、ありがとうございました!」
「あっはっは、君かぁ。中までわんこになってたんだね」
どうやら覚えていてはくれたらしく、それだけでも小躍りしながらそのまま逃亡したくなる。いやそれ怪しいだけだっていう自覚はある。あるけど単に嬉しいと逃げたいがせめぎあってる素直な心理状態なだけで。
「へー。このゲーセンこんな着ぐるみもあったんだ。触っていい?」
こくこくと頷くと、彼はもふもふと着ぐるみの腕のあたりを触った。多少動きまわって乱れてはいるが、選んだ毛並みに彼は満足のようだ。気持ちよさそうにラッシーにするように撫でさする。
「こういうのもゲーセンの景品になるといいのになあ」
「え、欲しいの?」
「うん」
至極当然のように、彼が頷く。
そうなのか、着ぐるみでもいいんだ……。
「え、ええと、あの、着ぐるみはここのだからあげられないけど、出来るだけ着るから……! 他のもあるしプリクラ用に猫耳とかうさ耳とかもあるからっ」
「ふーん。じゃあ次来るとき楽しみにしとくよ」
そう言ってわたしに笑いかけてくれた笑顔は、ラッシーに向けるのとよく似ていた。
以来、彼とはクレーンゲームに新作のぬいぐるみが入ったりするたびにその毛並みを選定する友達になった。一歩前進だと思う。
そしてわたしが着ぐるみコスプレ店員としてそのゲーセンで有名になるのもまた別の話である。
……道を誤ったとは断じて思いたくない。だってもふもふの毛並みは正義だもの。