遼州戦記 墓守の少女
その活動の主力を担っていた男の存在に、クリスは興味を引かれた。楠木伸介少佐……生死不明。それが米軍の情報網の結論だった。圧倒的な物量で胡州・遼南連合軍を駆逐した遼北の紅軍の波に飲み込まれ、彼らは死に絶えたと言うのが普通の見方だった。そしてその戦死者のリストの中に楠木という情報将校の名も並んでいた。
「楠木氏ですか。ずいぶんと微妙なところから来た人材ですね。大丈夫なんですか?」
先の大戦の激しさを知るクリスは一人の将校の生死など終戦協定の取りまとめの中で外務官僚にとって取るに足らない事実として扱われていたことは知っていた。そんな彼の問いにめんどくさそうな表情の明華が答える。
「そう?適材適所って奴よ。敵地潜入、情報操作、かく乱作戦。人格はともかく最高の人材じゃないんですか」
明華はそう言うと再び隊員達を引き連れて本部の建物に入る。
「よう、姉ちゃん」
中背中肉。四角い顔に、小さな目鼻が並んでいる男が明華に声を掛けた。露骨に不機嫌そうな顔で男を見つめる明華。ルーラとレム、そしてキーラもあまり良い顔はしていない。
「そう邪険にしてくれるなよ。いい話が出来そうだって言うのに」
男はそう言うとがっちりとした口元から、タバコのヤニに染まった黄色い歯をむき出して笑みを浮かべる。確かにこれでは好感を持てというほうが難しいだろう。楠木はそのまま手を振ると、階段の方へと消えていった。明華は不愉快な気分をどうにかしようと、大きく深呼吸をしてから二階への階段を上りだした。クリスもキーラ達の後に続いて急ぎ足で階段を上る明華を追いかけた。
先ほど楠木少佐を見つけてからというもの女性士官に微妙な気配が漂い、会議室まで奇妙な沈黙が続いた。それでも戦場と言うものを職業上知るしかなかったクリスはこのような沈黙には慣れていた。フリーライターと言うのは戦場では歓迎される存在ではない。幹部ならどこで足をすくわれるか警戒し、兵卒は自分の行動が監視されていると言う妄想に襲われて黙り込むことになる。嵯峨の妙に馴れ馴れしい態度の方がクリスには余計気になるものだった。そしてその手足として情報を管理する将校が根っからのスケベ親父であっても聞いてみればなんとなくしっくりする話だった。
不愉快が作り出す沈黙が会議室のドアを開き、席に腰を掛けても一同にはまとわり付いていた。さすがにそこまで嫌われると言うことの意味を知りたいという好奇心から楠木少佐をもう一度クリスは観察してみた。好意を抱かれると言うこととは無縁に生きてきたらしいその鷲鼻の胡州軍人は、下卑た視線を時々女性隊員に向けている。これでは嫌われるはずだと苦笑するクリス。
だが、敵との接触が予想される最前線でこういうふてぶてしい表情を浮かべられると言うのはそれなりの自信があってこそとクリスは思っていた。別にどこの軍隊でも見かけるクレバーな指揮官は決して勇敢そうな顔をしていないことは経験上分かっていた。そんな指揮官が長生きできるほど戦場はあまいところではない。だが、楠木のにやけた目の奥に何が映っているかはクリスにもわからなかった。明華達が明らかに楠木を毛嫌いしているにもかかわらず、黙って彼の舐めるような視線に耐えているのは彼の情報の精度が彼女達の戦場で生き延びると言う目的に必要だからなのだろう。
そんな状況を放任している嵯峨と言う人物の部隊長としての能力については現段階でクリスはかなり疑問を持っていた。そして憲兵隊長としての特殊な作戦の立案者としてではなく、生気部隊の戦闘指揮官としての成果をあまり上げていないこともクリスの嵯峨の評価を下げる原因の一つだった。
先の大戦では、枢軸陣営の最後の大博打として胡州軍が行った遼南軍との共同作戦による遼北への越境攻撃、『北伐作戦』。その作戦に借り出された嵯峨はアサルト・モジュールと機械化歩兵部隊で構成された混成連隊を指揮しているが、圧倒的な遼北の物量と開戦直後にゴンザレス将軍のクーデターによる遼南の地球側との停戦協定成立により、彼は戦果らしい物を一つも上げてはいない。
東海軍閥が嵯峨の実弟ムジャンタ・バスバ擁立を諦めて人民軍に協力するまでの何度かの戦闘を彼が指揮したという情報もあるが、これと言った実績の無い嵯峨が手持ちの情報をどう料理して物量に勝る共和軍に対峙するのかクリスにはまるで予想がつかなかった。
そんな事を考えているうちにクリスはそのまま会議室を一望できる席まで案内されていた。
「どうぞ、ここに」
キーラの銀色の髪がひらめくのを目にしてクリスは現実世界に引き戻された。彼女はクリスの椅子を用意するとそのまま部屋を出て行った。
誰一人としてクリスと言う外部の人間、しかも報道の人間がこの部屋での会議に列席するというのにそれが当然と言う顔をしている。まるでこれからの会議の内容が外部に漏れることを歓迎しているようにも感じられる。
「文屋さん。どうですか、北兼軍と言う奴は。まあ、一日二日じゃあ分からないかもしれませんがね」
そう言うと楠木は静かにタバコを取り出す。周りの将校達は別にそれをとがめる風でもなく、隣の席に腰を下ろした胡州浪人と思しき青年将校が彼のために灰皿を用意している。そして上座、嵯峨が座るだろう席にも汚らしいアルミの灰皿が置かれていた。
「あの、すいませんが。ちょっと窓を開けてもらえますか?」
クリスはいつものようにそう言って周りの反応を試してみた。ちょっとした日常会話から戦線に関する見方などが見て取れることもある。従軍記者を十年ほど続けてきたクリスはそう言うところを推し量る力には自信を持っていた。
「ああ、そうですねアメリカの方はあまりタバコはやらんでしょう。柴崎!窓開けろ」
言葉に性格が表れるというが、その媚びたような口調はクリスには気分の良い物ではなかった。その時クリスの背後で物音がした。思わず振り返ってみてそこにこの会議を仕切る男が頭を掻きながら手を合わせて入ってくる様子が目に入る。
「遅くなったね。紅茶おばさんがうるさくてさ」
そう言いながら嵯峨が部屋に到着する。誰一人席を立って敬礼する者はいない。紅茶おばさんと言う嵯峨の言葉も誰のことか特定できるようで何人かの士官は笑いを堪えながら議長席に向かう嵯峨を見つめていた。
「それじゃあはじめようか」
そう言いつつ、嵯峨はクリスの方を向いた。
「あの、一応これは戦争なんで、秘匿したい情報が出そうになったら退席してもらいますが……いいですか?」
突然の質問にクリスは絶句した。当たり前の話だがそんなことを前もって言った指揮官にクリスは初めて出会った。
「かまいませんよ。私達の為に戦争をしているんじゃないでしょうから」
クリスはそう言うととりあえず笑っておいたほうが良いと、経験上わかっていた。それを見ると嵯峨はクリスが存在しないかのような真剣な目つきで楠木に目をやった。そして楠木は立ち上がると、手にした情報端末をテーブルの中央にあるプロジェクターにつないだ。
立体的な、北兼台地の情報が表示される。ここから南に遼州最大の大河、兼江を下れば両岸に広がるのは緑に満ちた森の広がる北兼台地だった。
作品名:遼州戦記 墓守の少女 作家名:橋本 直