遼州戦記 墓守の少女
そう言うとにんまりと嵯峨は笑った。
「そう言うなら私は何も言わないことにしましょう。我々はこの基地を引き渡した後、再び東モスレム領内に後退する予定ですが、後退のルートはこちらの設定した順路でよろしいですか?」
「こちらで指定できることではないんじゃないですか?現状としてアメリカを中心とした親共和軍勢力の多国籍軍の背後を取っている以上、いつ彼らの総攻撃を受けるかもわからないですから。最良の策をとるのが指揮官の仕事じゃないですか」
そう言うと嵯峨はポケットに手を伸ばした。花山院は机の上の灰皿を差し出した。それを受け取った嵯峨はタバコに火をつけてくつろぐ。
「それと残念なことですが、捕虜は引き渡していただきますよ」
タバコをくゆらす嵯峨の隣に立つ伊藤の言葉に花山院は顔をしかめた。
「そう言う顔をなさる気持ちもわかります。捕虜の共和軍兵士はおそらく懲罰大隊に編入されて督戦隊の射撃標的になるんでしょうから」
そう言う伊藤の言葉を飲み込んだと言うように頷きながら聞いた花山院は今度は嵯峨の顔を見た。
「うちはただでさえ上の評判が芳しくないですからね。残念だが」
花山院は今度はクリスを見つめてきた。ただ力の無い笑みを浮かべるクリスを見たところで花山院は机を激しく叩いた。
「彼らが何をしたと言うんですか!同じ遼南の民が何で!」
誰もが同じ思いだった。そしてそれがどうしようもないことであると言うことも皆がわかっていることだった。
「まあ気持ちも分かりますが……情報ついでに、現在共和軍の三個軍団が降伏を打診してきていましてね」
タバコの煙を吐き出す嵯峨。
「三個軍団!十万以上の兵力じゃないですか!あなた方は……」
「まあうちは千人いないんでね。遼南軍ですから、飯がまずいとかうどんがかつお出汁だとか噂を流せば脱走してくれるんじゃないですか?」
そう言って笑う嵯峨。クリスも半分呆れながらその顔を見ていた。
「それでは後は任せましたよ」
そう言って逃げるように部屋を出て行く花山院。
「さてと」
そう言いながら司令室の椅子に身を沈める嵯峨。
「捕虜の武装解除は進んでるかねえ……」
端末を操作する嵯峨を呆れながら見つめるクリス。
「なんでそんなに余裕があるんですか?十万の捕虜を確保するなんて……」
「ああ、無理ですね。まあ俺も予想はしてたので小麦粉の買占めと製麺工場の確保はしているんですけどね」
クリスの言葉にすぐに答えた嵯峨。
「俺が胡州軍の将校だったら穴を掘らせて機関銃でなぎ倒して片付けますがそうはいかないんでね。とりあえずうどんとそれを茹でる水の確保には気をつけますが」
そう言ってにやりと笑う嵯峨。確かにこの男が胡州軍の憲兵隊長ならばそれぐらいのことは平然とやるだろうとクリスにも想像できた。そして遼南軍の伝説を思い出した。彼等はいつもうどんを食べる。それがアフリカの砂漠や大麗のコロニー外の真空であろうが彼等は水をふんだんに使ってうどんを茹でる。もしその水がなければすぐに脱走を始めるのが遼南軍である。そんなことを考えているクリスをぼんやりと見つめる嵯峨。
「だが、俺は一応北兼軍閥の首魁と言うことで名が通ってる。それに近くに米軍等の地球勢力の大部隊が展開中なんでね、降伏部隊の掃討なんかをすれば米帝は撤兵を視野に遼北と交渉しているテーブルを蹴るのは間違いない」
嵯峨の不気味な笑みにクリスの目はひきつけられる。
「まあこれで北兼台地の制圧には時間がかかることになりそうだな」
頭を掻きながら嵯峨は端末に映っている白旗を掲げた共和軍基地の映像を眺めていた。
「まあじっくりとやりましょう。楠木さん達も動いているんじゃないですか?」
伊藤の言葉に嵯峨は眉をひそめる。
「あいつも胡州軍気質が抜けない奴だからな。指揮官を二三発ぶん殴るくらいはやるかも知れねえな」
慣れた手つきで葉巻の吸いがらが散らばる大き目のガラスの灰皿を取り上げてタバコの火を消す嵯峨。
「まあ手綱は締めとくさ」
はっきりとそう言うと嵯峨は再び取り出したタバコに火をつけた。
「それでは降伏部隊の……」
そう言って部屋を出ようとした伊藤だが、その正面には先ほど部屋を出たばかりの花山院が戻ってきていた。
「どう言うことだ!」
そう言って花山院は机を叩く。ただ呆然と嵯峨はその顔を見つめていた。
「そんな怒鳴られてもなにがなんだか……」
「降伏した共和軍の河北師団が我々が迂回した米軍の通信基地を北兼軍の指示と言って攻撃したんだよ!」
唾を飛ばしながら怒鳴り散らす花山院。
「それで?」
まるで表情を変えることなく嵯峨はつぶやいた。
「守備兵力は50人前後だ。攻撃したのは一個師団1万五千だそうだ。それがわずかな兵の制圧射撃を浴びて攻撃部隊は驚いて壊走、我々の後方予備部隊を巻き込んで戦線が混乱している。それに乗じてアメリカ軍の部隊が逆侵攻を開始したそうだ!」
空気が一気に緊張した。クリスも伊藤の顔色が青ざめていくのがわかる。だが、嵯峨は達観したようにタバコをつまんでいた左手を灰皿に押し付けた。
「ようは降伏部隊に焼きを入れろってことですか?」
不敵な笑いを浮かべて立ち上がる嵯峨。
「ホプキンスさん。ちょっと用事ができましたんで……。そう言えば明日には西モスレムに発たれるんでしたよね」
そう言いながら嵯峨は人民軍の軍服の襟を直して見せる。
「はあ」
そう返事をするクリスに嵯峨はにやりと笑って見せた。
「まあ何とかしますよ。三派の人達には無事に東モスレムに帰ってもらいます。伊藤!そう言うわけでしばらくは留守にするから。楠木にはこう言う事態を予想して話はつけてある」
そう言うと嵯峨は立ち上がった。
「出撃ですか?」
そう言うクリスに情けないような笑みを浮かべる嵯峨。
「俺の馬車馬を見たらアメちゃんも少しはおとなしくなるでしょうからね」
そう言うと嵯峨は真っ赤に顔を染めている花山院の肩を叩いて司令室を出て行った。
「まったく……だから遼南の軍隊はうどんを茹でるしか能が無いって言われるんだよね」
そう独り言を言う伊藤。
「ああ、すいませんねえ。それじゃあまもなく後続の部隊も到着するでしょうから」
そう言うと伊藤は司令室からクリスを連れ出した。
「しかし、こんなに降伏部隊を受け入れる余裕はあるんですか?」
思わず質問したクリスに隼は首を振った。
「無理ですね。しばらくは進軍どころか補給の確保で精一杯でしょう。どうにか物資の空輸を東和に許してもらうのができるかどうかというところですが」
クリスは廊下から外を見た。捕虜になった共和軍の兵士に東モスレム三派の兵士達がパンを配っているのが見えた。
「パンで満足しますかねえ」
そう言って引きつった笑いを浮かべる伊藤。中庭の捕虜達を眺めている二人の隣に黒い棍棒のような腕があった。
「やあ、無事みたいだな」
ハワードはそう言うと一緒になって庭の捕虜達に目を降ろした。
「ここから南は大変らしいじゃないか。まあゲリラの方が強いから逃亡する共和軍の兵士も無茶はしないだろうがな」
作品名:遼州戦記 墓守の少女 作家名:橋本 直



