遼州戦記 墓守の少女
「知らないことがいいこともあるということですよ」
クリスの方を見ながら伊藤は笑った。そんな言葉を聞いたあと先ほどまで立っていた嵯峨を探してみた。
「そう言えば嵯峨中佐はどこいったんですか?」
不意に消えたくたびれた中年男の存在感の喪失。だが伊藤は表情を一つとして変えない。
「さあ……」
伊藤はそれだけ言うとクリス達を置き去りにして本部のビルへと消えていった。
クリスはそのままシャムと一緒にハンガーに向かった。主がどこかへ行ったと言うのにカネミツの組上げが急ピッチで進んでいる。2式の周りでは出動を前にした緊張感を帯びた整備兵が走り回っている。
「忙しいねえ」
シャムは熊太郎の喉を撫でながらその様子を見つめている。ハワードは整備員の邪魔にならないように注意しながら写真を撮り続けていた。
「あ、ホプキンスさん!」
ただ立っているだけのクリスに話しかけてきたのはキーラだった。
「大丈夫ですか?かなり忙しいみたいですけど」
クリスの言葉にキーラは疲れたような面差しに笑みを浮かべた。
「まあ戦場に向かえる状態に機体を整備するまでがうちの仕事ですから」
そう言うとクリスの隣に立ってハンガーを眺めていた。パイロット達の姿は無い。詰め所にいるのか仮眠を取っているのかはわからなかった。
「決戦ですかね」
クリスの言葉にキーラは頷いた。
「吉田少佐が指揮権を引き継いだと言ってもすぐに納得できる兵士ばかりじゃないでしょう。それにこの一週間の間、難民の流入による交通の混乱で資材の輸送が混乱していると言う情報もありますから」
キーラの言葉でクリスは何故嵯峨がこの基地を留守にするのかがわかった。情報戦での優位を確信している吉田はすでに嵯峨が不穏な動きをしている情報は得ていることだろう。だからと言って打って出るには資材の確保が難しい状態である。必然的に北兼軍の動きを資材の到着を待ちながら観察するだけの状態。今のようなにらみ合いの状態が続き北兼台地の確保の意味が次第に重要になっていく状況でもっとも早く戦況を転換させる方法。そして嵯峨がもっとも得意とする戦い方。
それはバルガス・エスコバル大佐の殺害あるいは身柄の確保である。
難民に潜ませた共和軍のスパイがこの基地の情報を吉田に報告しているだろうと言うことはこの基地の誰もが知っていたことだ。そして壊滅させられた右翼傭兵部隊の壊走にまぎれて北兼が工作員を紛れ込ませていることも嵯峨も吉田も当然知っているだろう。
敵支配地域に尖兵を送り、協力者を通じて潜入、作戦行動を開始する。クリスはこの一連の行動が嵯峨のもっとも得意とする作戦であることに気付いていた。
「要人暗殺、略取作戦……」
そうつぶやいたクリスを不思議そうに見るキーラ。
「出撃は明朝ですよ。休んでおいたほうがいいんじゃないですか?」
キーラの言葉を聞くとクリスはとりあえず本部に向かう。シャムは黙ってクリスを見送った。
従軍記者の日記 23
本部は主を失ったと言うのに変わらぬ忙しさだった。事務員達はモニターに映る北兼軍本隊のオペレーターに罵声を浴びせかけ。あわただしく主計将校が難民に支給した物資の伝票の確認を行っている。
「要人略取戦……いいところに目をつけたな」
カリカリとした本部の雰囲気に気おされそうになるクリスにそう言ったのはカメラを肩から提げたハワードだった。
「すべては予定の上だったんだろうな、多少の修正があったにしろ」
クリスはそう言うとエレベータに乗る。
「待ってください!乗りますから」
そう言ってかけてきたのは御子神だった。
「中尉、そんなに急いで何かあったんですか?」
クリスのその言葉に肩で息をしながらしばらく言葉を返せない御子神。
「明日の出撃の時間が決まったので……」
そう言うと御子神は一枚の紙切れを出した。動き出すエレベータ。御子神はそのまま背中を壁に預ける。
「02:00時出撃ですか。ずいぶんと急な話ですね」
クリスの言葉に御子神はにやりと笑う。
「先鋒はセニアさんの小隊です」
そのままエレベータは食堂についていた。難民対策で休業状態だった食堂にはようやく普段の日常が戻り、忙しく働く炊事班員が動き回る。そんな中、窓際のテーブルでセニアとレム、ルーラが食事を始めていた。
「ずいぶん早いですね!」
そう言って黙々と食事をしている女性パイロットの群れにレンズを向けるハワード。
「撮るなら綺麗に撮ってくださいね」
そう言って白米を口に運ぶレム。セニアはデザートのプリンをサジですくっている。
「先鋒には便乗できる機体はありますか?」
クリスの言葉に御子神は呆れたような視線を送る。
「シャムもセニアさんの小隊付きですよ」
食堂のカウンターでトレーをつかんだクリスは周りを眺めてみた。パイロット以外で食堂にいる兵士はいない。
「歩兵部隊は動かないんですか?」
その言葉に御子神は厨房を覗いていた目をクリスに向けた。
「それなんですが、楠木さんが隊長の方について行っちゃったので……」
そこまで言って御子神がはっとした顔になる。彼もまた伝説の存在として『人斬り新三』と呼ばれた嵯峨を知る世代だった。
「別にそのくらい予想がついてますから。バルガス・エスコバルとその直下のバレンシア機関潰しですね」
そう言うクリスに曖昧な笑みを浮かべる御子神。クリスは黙って部屋を見回す。そこには出撃前の割には緊張感が欠けているようにも見えた。
「遅いっすよ!御子神の旦那!」
そう言いながら和風ハンバーグステーキを食べているのはレムだった。明華は静かにラーメンの汁をすすっている。隣のルーラとセニアは餃子定食を食べていた。
「じゃあ僕はカレーにするかな……」
そう言う御子神の向こう側に一人ライスに卵スープをかけたものを食べているシンがいた。
「何を食べているんですか?」
呆れたように尋ねる御子神をにらみつけるシン。
「ムハマンドの預言書で決められたもの以外口にできるわけないだろ?それに今は聖戦に向かうために取っている力だ。食事とは言わない」
吐きすてるようにそう言うと、シンは味が薄いのかテーブルの上の醤油をご飯にかける。
「シン少尉は敬虔なイスラム教徒なので……」
隣でカツカレーを食べているジェナンが言葉を添える。隣でボルシチをスプーンですくいながらライラが頷く。
「でも卵スープ……」
「私はこれが好きなんです!」
突っ込むクリスにシンはそう言い切った。
「いいじゃないか何を食べようが。俺がクリスの前に組んでたライターはユダヤ教徒だったけど、せっかく潜入した九州の右翼民兵組織のキャンプで出されたカニ料理にぼろくそ言ってそのままアメリカ兵に突き出されたこともあるぞ」
ハワードはそう言いながら受付でカレーうどんの食券を買う。
「俺はビーフシチュー……」
クリスは食券売りの事務官の女性に声をかけた。
「それはダミーです」
受付の若い女性事務官が答える。
「じゃあミートソーススパゲティー……」
「それもダミーです」
クリスは唖然とした。
「じゃあ何でこんなにメニューがあるんですか?」
作品名:遼州戦記 墓守の少女 作家名:橋本 直



