ミス・パラレルワールド
長期休暇や帰省ラッシュの時期に比べれば交通量は断然少ないはずなのに、激しい雨を警戒しながら進んでいくせいで僅かにしか動かない車の窓から外を眺める。見下ろす街並は雨に霞んで、橙や白、青色の不明瞭な光の群れが連なっている。まるで星のなかを渡り歩いているようだ。
「東京水没したらどんだけのもんが残るのかねえ」
「建物の造りはしっかりしてるから形状はそのまま遺るんじゃないですかね」
「いやさ、ビルやらタワーは遺るだろうよ、そりゃ。でも寺とか昔から大事にされてきた意味のある建物って簡単に腐敗してくんだろうな」
先輩の言葉を聞きながら、今日訪れた町を思い出した。水力発電所の建設予定地となり水没した町。今となっては水力発電所も使われなくなり、水が干上がって町の名残だけがそこにあった。コンクリートで造られた学校や家屋はほぼそのままに遺っていたが、木造建築は痕跡と板切れを見てようやく「あったのだろう」と想像できる程度。祠や神社の跡地だったのだろう、地蔵や狛犬が転がっている場所もあった。
「人間はまず助からねえしな」
「人間なんて脆い生き物ですからね」そう。人間なんて咽喉に物を詰まらせたり転んだりしただけで死んでしまうような、独りでは決して生きていけないような、もろくて儚い生き物なのだ。だから誰もが誰かに寄り添わずにはいられない。「――東京水没したら奥さんも死んじゃいますよ」
私が好きな先輩だって、そんな脆弱な人間なのだ。
おれ、結婚するかも。
シャッターを切る音の合間に聞こえたのは、そんな報告だった。
「そうですか。先輩を結婚相手に選ぶなんて天使のような方なんでしょうね」
おめでとうございます、という一言が出てこなかった。普段どおりの生意気な憎まれ口でごまかしたけれど、かなり長いことたくさん世話になった先輩だ、こんな時くらい素直に祝福するべきなのに。
そう考えて、先輩、という言葉が妙に引っかかった。そのささくれから、どろり、濁ったものが溢れだして、どんどん身体じゅうに溜まっていくのが判った。
「さすが愛海ちゃん、手厳しい」
ずるい。こんなときに名前を呼ぶなんて、このひとってなんてずるいんだろう。名前を呼ばれた瞬間、澱に波紋が拡がって揺らぎ、ひどく眩暈がするようだった。
私は先輩を尊敬していたけれど、それ以上に人間としてとても好きだったのだ。相田光生というこの男が。とても、好きなのだ。
せんぱい。声に出さずに呼んでみた。当然彼は振り返らない。一度も呼んだことのない名前を呼ぶ代わりにじっと見つめてみた。だけどあの日のさみしさはどこにも見つけられず、凛とした背中は想い出より遠く感じる。
視線を手元のメモ帳に落とすと、水滴が落ちて文字が滲んだ。雨はただそれ一滴だけだった。
呟いた言葉は他人の吐いたセリフのように耳に届いた。相変わらず景色はのろのろと真横を流れる。ワイパーが忙しなくフロントガラスを拭い、一瞬開ける視界はすぐさま白くけぶる。
「まだ奥さんじゃねえよ。嫁さん候補な」
ちらりと覗き見た先輩は眉を顰めながら口端を上げるという器用な表情をしていて、ああこれはたぶん照れ隠しなんだなとぼんやり思う。初めて見る表情だった。こんな顔をさせているのは私ではなく、人間の厭な部分を見抜いて切り取り続けてきた先輩が手を取った『嫁さん候補』のだれか。候補、なんて言いながら、他のひとを選ぶことなんてないのだ。ましてや生意気で頑なな可愛くない後輩なんて絶対に選ばないにちがいない。
「このまま、」降り続けばいいのに。あとの呟きは声にならなかった。聞こえなかったのか、それとも聞こえないふりをしたのか、先輩は訊ね返さなかった。それでいい。それが、いい。
だって言えるわけがない。「このまま降り続いて、世界にふたりだけになればいいのに」なんて、そんな戯言。
口に出せなかった言葉はいつものように咽喉に絡まった。だけどそのまま落ちてはいかず留まって熱を孕み、嚥下しきれなかったその熱は目の奥までせり上がって疼いた。私はもういちど窓の外に顔を向ける。光の世界は私の目のなかで確実に水没していく。
水没した世界に浮かぶこの空間はさしずめ方舟だ。今だけ私は相田光生という男とこの空間にふたりだけ。星の路を渡りきったら、私は心臓を握りつぶされるようなこの想いを心の底、もう二度と手の届かない奥底に沈めなければならない。先輩の左手薬指に銀色した光がきらめく頃、「おめでとうございます」が笑顔で言えるように。
だからこの夜は、私の心のなかのほかどこにも存在しない、ひとつきりのパラレルワールドなのだ。
作品名:ミス・パラレルワールド 作家名:東雲せぞん