小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」

ミス・パラレルワールド

INDEX|1ページ/2ページ|

次のページ
 
 仕事の出張で先輩と茨城に赴いた帰りだった。首都高速に乗り上げた瞬間、車のルーフや窓に弾丸が撃ちつけられるような音とともに視界が白くけぶった。
「すげえ雨だなあ、オイ」
「ゲリラ豪雨らしいですよ」
 ノイズの酷いカーラジオから、落ち着いた女性の声で天候情報が流れている。近年では都内で唐突に大雨が降り、交通機関や人命に影響が出るほどの水害を被ることが多くなってきた。「ゲリラなんてご大層な名前つけたよな」と隣の男は軽く笑ったが、あながち大袈裟ではないのかもしれない。
「渋滞しちゃいましたね」
「まー、飛ばして事故るよりいいんじゃない」
 私としては一刻も早く帰って眠りにつきたかった。先輩とこれ以上一緒にいたくない、というのが本当の理由だけれど、そんなことは口に出せるはずもないので私は押し黙った。
 雨はいっそう酷くなる一方だ。

 私の勤めている会社は社長の趣味で経営されている小ぢんまりとした個人出版社で、マニア向けのフリーペーパーやタウン情報誌、そこそこ売れているが傑出しているわけではない作家の出版を手伝っている。ただでさえ虫の息である出版業界でもさらに需要の無い仕事をしながらも細々と続けていられるのは、本当に『趣味』で経営されているから、らしい。
 先輩の話によれば「社長はどこぞの御曹司で、出版社は父親の会社の跡を継ぐまでのあいだの『お遊び』」なんだとか。その話だって本人に確かめたわけではないらしいのでただの推論でしかない。社長と呼ぶには彼は確かに若いし態度も気安い。それでもなんだかちょっとだけ心が弾むような、いつこの生活が打ち切られるかわからない綱渡り感覚に冷や汗がでるような、そういった緊張感を与えてくれる話題だった。
 大学の就職活動でどうしても出版社に入社したかった私は、求人誌を血眼になって探して何社も採用試験を受けたが落ち続けてしまった。周りが着実に就職を決めていくなか、諦めて一般事務に申し込もうとした折、奇跡的に合格した出版社がこの会社だった。収入が良いとは決して言えないが、自分の好きなことを仕事にできるしあわせに比べればそんなことは些細な問題でしかない。
 五年がたった今もその気持ちは変わらず、むしろ強くなっている。職場の人間関係は穏やか――というより個性の強い人物ばかりのせいで賑やかで、頻繁すぎる出張だって見知らぬ土地を探索してそれを読者に伝えるためのものだ。恵まれ過ぎている。そんな日常が終わってしまうのはさみしいし、なんだか置いて行かれた子どものような気持ちになってしまう。推論がただの推論で終わればいいなあ、と願ってしまうのは当然だ。
「じゃあ、社長がお父様の会社を継いだらここは無くなってしまう?」
「そうとは限んねえだろうけど、十中八九そうだろうなあ。だって『趣味』だし?」
 しょうがねえよ、と苦笑した先輩を意外だと思った。そして、やっぱり大人なんだな、とも。普段は子どもみたいな振る舞いで周囲を呆れさせることの多い彼だって現実と理想の区別はしっかりと持っていて、自分を上手に納得させる術も心得ている。「きっと大丈夫、なんとかなる」と心の奥底で信じている私のほうがよっぽど子どもだったのだ。

「このまま東京水没しちまったりしてなー」
 間延びしたセリフは口調と裏腹に穏やかでない。個性の強い人間の集う職場でもいちばんアクが強いのはこの男、相田光生である。かの有名な詩人と同じ読みの名前を持つこの先輩は、名前を裏切りいつもおちゃらけていて掴みどころがない。長いドレッドヘアを一つ結いにして常にサングラスをかけている。無精髭は生やし放題、浅黒い肌にラフな服装。一見しただけではちょっと近寄りがたい。
「ばかなこと言ってないでアクセル踏んで下さい。車間空いてますよ」
「いやいや、こんくらい空けなきゃスリップ事故とか起きたら死んじゃうよ? 俺ら」
 相変わらず荒っぽいなあ、これだから梶取ちゃんに運転任せるの怖いんだよね。そんな揶揄いに「悪かったですね、荒っぽくて」と不貞腐れると、大きな左手が髪の毛をぐしゃぐしゃと乱して離れた。私が機嫌を悪くすると髪が乱れるくらい掻き乱すのは先輩の癖だった。そのたび文句を返そうと思うのだが、やさしく微笑う目を見るといつだって言葉は咽喉に絡まって、そのまま胃の底に落ちていくのだった。
 拗ねたふりをして窓に視線を遣ってしまったので先輩を見ることはできなかったけれど、きっといつものように微笑っているのだろう。

 私も最初はこの男の独特な雰囲気が苦手で、初めて出張を共にした時は胃が痛くなるほど嫌だったものだ。人付き合いが下手で頑固者の私は「絶対自分から話してやるもんか」と変な意地を張っていたせいで、行きの車中は相当気まずい雰囲気だった記憶がある。
 そんな私が往路の運転を引き受けたのだが、首都高速でも恐れずにガンガン車を進めていく女性が珍しかったのか目を瞠って「勇ましいねえ、キミ」と爆笑された。その時も私は確か「荒っぽくてすみませんね」とへそを曲げたのだ。そして、先輩は節張った右手で前日に切ったばかりの私の髪をぐしゃぐしゃにして「ごめんね梶取ちゃん」と微笑った。それが最初だった。
 目的地に着くと先輩は人が変わったようにシャッターを切り続けた。彼はうちの社にいる数少ない景観を被写体とするカメラマンなので、地方にある秘境の(と言えば聞こえが良いが、実際は廃墟や心霊スポットなどの若干オカルトな噂のある)地を紹介する記事を担当している私とよくセットにされるのだ。
 私は記事を書くふりをしながら別人のような後ろ姿を眺めていた。ひと気のない荒涼とした廃村に挑むようにして一眼レフを構える彼は目に見えないなにかと戦っているようで、凛としているのにどこかさみしげだった。
 「こんなもんかな」と振り返った先輩の声で我に返り、ほとんど真っ白なメモ帳と対面して頭まで真っ白になったのももう笑い話だ。
 復路を運転しながら、彼は自分の過去を簡素に語った。前職は大手出版社の発行している週刊誌の専属パパラッチだったこと。不眠不休で撮った写真が翌日、世間を騒がせる優越感にしばらく浸っていたが、続けていくうちに他人のプライベートを曝す後ろめたさに遣り切れない気持ちになったこと。冗談で受けた今の出版社に偶然受かり、勢いで前の出版社を辞めてこの出版社へ入社したこと。
「俺も若かったよなあ。生活考えたら前のほうが絶対安定してるし、そこまで思い詰めてたわけでもなかったのにな」
 でも、後悔は全然してねえ。そう言って屈託なく笑った声が忘れられない。その時から、私はこの先輩のことを尊敬している。口には決して出さないけれども。