遼州戦記 保安隊日乗 5
「君達と人道について語る必要は私には無い。あくまでも利害が一致したからここに居る。そうなんだろ?」
カーンはそう言うと女性に手招きした。桐野達を無視して表情が死んでいるような女性はそのままカーンからコーヒーカップを受け取った。彼女はそのまま流しのところまで行って半分ほど入っていたコーヒーを捨てる。
「俺等の再教育など必要無いんじゃないですか?こいつ等には爺さんのオムツでも代える仕事が向いてるよ」
北川の言葉にも女性は反応を示さない。その様子を見ていた桐野の表情がこわばる。
「確かに彼女を介護士として養成するなら地球人にでも教育できそうだ。だがそれでは私が君達の飼い主に払った金が無駄になるな」
カーンの言葉には桐野も北川も黙り込むしかなかった。いつまでとは指示は無かった。とにかくゲルパルトの国民党残党勢力の手元にある人工法術師を一般市民に混ざってもわからない程度の常識を教え込む。それが桐野達に与えられた指示だった。
「仕事はしますよ。ただその結果飼い犬に手を噛まれないように」
それだけ言うと桐野は再び大げさにグラスの酒を煽った。
時は流れるままに 21
地下鉄の駅を出て、北風の冷たい夕方の街を誠とカウラはゆっくりと歩いた。カウラは手にしたケースをしっかりと握り締め。時々視線をそちらに向けながら黙って歩いていた。街路樹の柳は葉もなく、その枝は物悲しい冬の風に吹かれていた。そんな風は誠の実家にたどり着いたときも止むことは無かった。
「ただいま……?」
誠がそう言って玄関を開けると小さな靴が一足あるのが目に入った。道場の子供かと思ったが、磨き上げられた革靴にそれが二人の上官のランのものだとわかった。
すぐにカウラの顔に緊張が走る。すばやく靴を脱ぎ捨てて部屋にあがったカウラ。誠はそんな状況でも大事そうにかばんを抱えているカウラを見つめながらそれに続いた。
「よう!邪魔してるぞ」
夕日を背に浴びながらコタツでみかんを食べているラン。その前に座っている薫もなにかうれしそうに微笑んでいた。いつもの勤務服姿のランだが、その小さいからだが隠れるようにコタツに入っているとどこかの小学校の制服に見えるので誠は噴出しそうになった。
「なんですか、脅かさないでください」
そう言いながら手にしたかばんを後ろに置いたカウラ。勤務服姿のランはそれを追求せずに自分が持ってきたバッグから何かを取り出した。
「アイシャが居ないが……まあいいか。まずこいつ」
ランは書類ケースを取り出す。
「第二小隊のシミュレーションのデータ解析を東和軍に頼んだからその時の経費関係の決済書だ。お前のサインがいるって高梨につき返されてさ。それでこの三枚。複写になってるからよろしくな。それと……」
今度は記録ディスクを取り出す。
「この資料。一応、アタシなりに今回の三機の起動実験のデータをまとめたもんだ。目を通しといてくれ」
カウラはそれぞれ受け取ると中身を確認してため息をつく。
「どうしたんだ?ため息なんかついて……って聞くだけ野暮か」
そう言いながら小さい手で頭を掻くラン。そのまま再びかばんに手を入れると冊子を一冊、それにデータディスクを取り出した。
「これはリアナに頼まれた資料だ。なんでも『高雄』の設備更新の資料だと。これはあとでアイシャに渡しておいてくれ」
「あの、たぶんもうすぐ帰ってくるとは思うんですけど」
受け取ってみたもののいまいち理解できずに言い返そうとするカウラだが、ランはにっこりと笑って首を横に振る。
「あいにくもう本局に向かわねーといけねーんだわ。予算執行に関しての口頭で説明しろって話だ。これは本当は隊長の仕事なんだけどなー」
「ああ、惟基君は相変わらずサボり癖がついてるわけね」
それまで黙って話を聞いていた薫の言葉。ランはただ照れ笑いを浮かべるだけだった。
「薫様のおっしゃるとおり!あのおっさんは一度しめないといかんな」
そう言ってランは最後の一袋のみかんを口に放り込む。
「様?」
誠はランの言葉が気になって繰り返してしまった。その誠に突然ランの表情が変わる。
「あ……!あれだよ。年上はちゃんといたわらないと」
明らかにあわてているランだが、誠の母はニコニコと笑っているだけだった。そして薫の目はカウラが手にしている豪華な装飾の施されたかばんへと向かった。
「でもベルガーさん。そのかばんは……」
ようやく話題を振ってもらってカウラの表情が明るくなった。
「ええ、これは西園寺からの誕生日プレゼントですよ」
「まあ!」
驚いたように身を乗り出す薫。ランも興味を惹かれたようでじっとカウラの手にあるかばんを眺めている。
「なにか?そんなに豪勢なかばんになに入れるんだ?通勤用とか言ったら重過ぎるだろ?」
ランはかばんがカウラへのプレゼントだと思ったらしく淡々と次のみかんを剥いていた。
「すでに入っているんです。夜会用の宝飾品のセットとドレスだそうです」
そう言われてもピンと来ないというような表情の薫とラン。そこでようやくカウラは腕の端末を起動させて机の上で画面を広げて見せた。そこには店で誠も見たドレスにティアラ、ネックレスをつけたカウラの姿があった。
「おー!こりゃあすげーや」
「素敵ねえ」
誠もひきつけられたカウラの写真に息を呑む二人。
「何度見ても素敵ですね」
「世辞はいいが何も出ないぞ」
そう言うとカウラは端末の画像を閉じてしまう。
「なんだよ、もう少し見せろっての」
ランはみかんを口に入れながらそう言った。だが、薫がランの後ろの時計を指差す。
「ああ、しょうがねーなー。じゃあ例の件、よろしく頼むぞ」
そう言ってランは立ち上がる。薫がそれにあわせようとするのを制すると、そのまますたすたと玄関へと向かった。
『ただいまー!ってなんでちびがここに?』
『うるせー!仕事だよ』
『まったくお疲れ様ですねえ。ちっちゃいのにお利口さんで……偉い!キスしちゃう!』
『アイシャ、いつかぼこるからな』
玄関で要とアイシャの二人に出くわしたランの大声が誠達にも響いてきた。
「怖いわ!ランちゃんがいじめに来たわ!」
早足で飛び込んできたアイシャが誠にすがりつく。
『アイシャ!聞こえてんぞ!』
ランの怒鳴り声。それを振り返りながらふすまを閉めながら入ってくる要。
「また叔父貴は司法局の呼び出しをランに肩代わりさせたのかよ。あんまり上と距離とっているといつか足元すくわれんぞ」
頭をかく要。さすがにその言葉にはカウラも頷いている。
「ああ、クバルカ中佐から渡されたものだ。なんでも鈴木中佐からの預かり物だそうだ」
誠にしがみついているアイシャをにらみつけながら冊子とディスクを差し出すカウラ。しばらく呆然とそれを見つめた後、仕方がないというように自分の前に引っ張ってくる。そしてそのままさも当然のようにコタツの誠の隣に座って冊子をめくるアイシャ。
「お姉さんも……これなら私も通信端末に転送されてたから見たわよ。丁寧と言うかなんと言うか……」
「あれじゃないか?通信だと情報漏えいがあるからそれに対応して……」
作品名:遼州戦記 保安隊日乗 5 作家名:橋本 直