よしよし申すまじ
人気が無く、不気味なぐらい静まり返った廊下を、抜き足忍び足で歩かれる満鷹様。
彼のお顔は、自身が手に持っている灯りのお陰で、よく拝見することが出来ました。
不安そうで、しかしその中に何か吹っ切れたようなさっぱりとしたものを感じられます。
……戦況は一向によくならないというのに。どうしたのでしょうか。
姫様のお部屋までたどり着くと、彼は小声で「猛、入るぞ」とおっしゃいました。
そして、返事が来る前に襖の隙間を開けて、そこから身体を室内にねじ込んだのです。
夜も遅いのにも関わらず、猛姫様は眠ってはおられませんでした。満鷹様に背を向けている形で座ってます。
灯台こそありましたが、それは彼女の背を優しく照らすだけ。肝心のお顔の方は陰になっていてよく見えません。
満鷹様は姫様の元に歩み寄ると、どっかりと胡坐をかきました。そして、すぐさま口を開いたのです。
「猛、聞いてくれ。私は明日の朝……城の門を開けるよう命じようと思う」
「…………」
「勿論降伏するわけではないぞ!降伏したように見せかけて敵を油断させおき、注意散漫に成ったところを叩くのだ。
数では明らかにこちらの方が不利なのだが……首尾よく大将を討ち取れば、勝てるかもしれん」
「…………」
「しかし、返り討ちにあう可能性も十分ありえるからな。猛はすぐに腰元たちを連れて、裏山にある寺に逃げてくれ。
あそこの住職は朝比奈家の遠縁の者であるから、話をすればわかってくれるだろう。戦が終わったら迎えにいく。そして、今度こそ平穏に暮らそう」
猛姫様うんともすんとも言いません。それどころか、人形のように微動だにしないのです。
まさか、座ったままの姿勢で眠っているのでしょうか?しかし、満鷹様は気にならないようで、さらに話を進めます。
「私はな、実は明日の戦で抜かず一閃を抜こうと思うのだ。勇猛な父ですら恐ろしがり、その生涯一度も用いなかった妖刀を使うのは、今しかないだろう。
空から降る火矢が、もしかしたら敵味方問わず降り注ぐかもしれん。もしかしたら、私もそのうちの一本に射られ命が尽きてしまうかもしれん。
……だから、猛よ」
満鷹様は、私を鞘ごと腰から抜かれました。そして、姫様に差し出すようにして突きつけたのです。
なんでこんな時に限って私を頼るんだよばかばかばか!妖力なんて無いのにどうしろっていうんだよ!と苦悩していた私は、その突然の行動に驚いてしまいました。
鬼女に一体何をするつもりなのでしょう?
「神仏の代わりに、朝比奈小菊丸満鷹を、この刀の凶弾から免れるよう願ってくれないか?
神仏の百の守護よりも、お前一人の祈りの方が、私にとっての何よりの力になるのだ」
すると、猛姫様はゆっくりとこちらに振り向いたではありませんか。
どうやら、寝ていたわけでも、死んでいたわけでもなかったようです。
絶妙な俯き加減のせいで、顔は影になったままでしたが。彼女は白魚のように美しい手を抜かず一閃に伸ばし、鞘に触れた……かと思うと。
次の瞬間、私は強い力で持って引っ張られてしまったのです。
誰に?
猛姫様に!
え?と満鷹様が小さく声を漏らしたのが聞こえました。
「腹ぁ減ったなぁ……」
姫様の愛らしく小さなお口から紡がれたとは到底思えない、野太い声。
ゆっくりと、彼女は頭をあげました。額、頬、口と順々に光が当たります。
露になる口周りと白い小袖にべっどりとついているそれは、血……なのでしょうか。
生々しい錆びた鉄の匂いがにおってきます。
それはあまりに濃厚で……部屋の隅から漂ってくるような。
「アレだけでは足らんなぁ、足らんなぁ……」
よもや、部屋の隅……光が全く及ばない所に積まれているあれらは人間ではないでしょうか。
それも、猛姫様の腰元として、領地中から集められてきた美しく若き乙女たち。
ある者は喉笛を噛み切られ、あるものは腕を欠き。苦痛に顔をゆがめ、目を見開き、それぞれの格好で息絶えているような。
そのどれもが、腿の肉が無く、骨が見えてしまっている気がしてなりません。
「女子は柔らか過ぎていかんなぁ……。腹を満たすには、男の固い肉が必要じゃ。肉が……」
猛姫様は鞘に手をかけ、ゆっくりと私を引き抜きます。
抜かず一閃の刀身が、部屋の明かりと満鷹様の明かりに照らされ銀色に光りました。
鏡のように澄んだそこは、お二人の顔をありありと写しだします。
知性の無い野獣のような瞳をした猛姫様を。
口と目を丸くしたまま固まった満鷹様を。
とうとう切っ先まで鞘を抜かれました姫様は、私の外殻を手から離しました。
重い音が部屋一杯に響くと同時に、満鷹様もまた、手から明かりを落とされたのです。
油を媒介して、音も無く一斉に炎が床一面に広がりました。
「まずは血を飲もう……。それから肉を食っても遅くは無いわな……」
「猛?」
目の前で剣を構える嫁に、足元の火の海に。
窮地にあるにも関わらず、満鷹様のお声は普段と変わらない、穏やかなものでした。
「あぁ、まずは腕。それから顔、腿は毛が生えてまずそうじゃのう。いらぬ、これはいらぬ……」
「猛」
あぁ、早くお逃げください満鷹様。この女は最早人間ではないのです。
(猛姫様は抜かず一閃を頭上高く振り上げました。流石は夏から秋にかけて毎夜のように使っていた得物だけあって、手馴れた動作)
未だに信じられないかもしれませんが、空腹のまま食人という大罪を犯し続け、畜生に成り下がってしまった奥方様には何を言っても無駄でございます。
(満鷹様は胡坐をかいた姿勢のまま、ぽかんとした顔で私を見上げていました)
疾く疾く足を動かすのです。この地獄から逃れる術はそれしかな
(姫様は一気に刀を振り下ろしました。鎧を着ていない満鷹様の身体はあっさりと袈裟切りにされてしまいます。
勢いよく飛び出る血は、猛姫様のお顔に、そして抜かず一閃の刀身にもかかりました。大好きな大好きな満鷹様の血。
不思議な事に真っ赤に染まった私の視界は、次第に暗くなっていきました。歓喜に咽ぶ猛姫様の声も段々と小さくなり聞こえにくく。そして何より私の頭が考)