遼州戦記 保安隊日乗 3
アイシャはそのまま要にパンチをしようとした。当然のことだが、戦闘用に機械化された要の体はアイシャの一撃など軽く受け止め、そのまま腕をねじりあげる体勢に持ち込んでいた。
「いきなり何しやがんだ!」
さすがに誠も明らかにトリッキーすぎるアイシャの行動に苦笑いを浮かべながら先ほどから頭にこびりついている疑問を要にぶつけることにした。
「西園寺さんの親戚に8歳くらいの男の子っていますか?」
誠の言葉に首をひねる要。彼女は首をかしげながらさらにアイシャの肩の関節を締め上げる。
「ちょっ!たんま!やめ!」
ばたばたとあいた左手で要を叩くアイシャ。要はそのままアイシャを離すと再び熟考を続けた。
「親父の系統じゃあいねえなあ。だけどお袋の系統だと……こっちもいるとしたら叔父貴の腹違いの弟ってことになるけど……ここらに住んでるなんて聞いたことねえよ。それにしてもなんでそんなこと聞くんだ?」
あの少年が要くらいの立派なタレ目だったら確実にわかるのにと思いながら愛想笑いを浮かべる誠。もしそんなことを口に出せば、先ほどのアイシャの比ではない制裁が加えられることは間違いなかった。
「西園寺の親戚は胡州や遼南の貴族ばかりだからこいつに聞かなくてもネットで調べればわかるんじゃないか?」
要から開放されたアイシャを抱き起こしながらカウラがそう言った。
「じゃあ、あれ……隊長の腹違いの弟とか」
アイシャはようやく息を整えるとそう言った。誠もその言葉に納得した。保安隊隊長嵯峨惟基の父、ムジャンタ・ムスガ、贈り名、兼陽帝は息子のラスコーを追い落として帝位につくや否や酒色におぼれ政治を放り出した愚帝だった。彼は次々と女官達に手をつけ、その数は二百人とも言われる子供をなした。保安隊の次期管理部の部長に内定している高梨渉参事などもそんなムスガの子供達の一人だった。
「それならなんとなく納得いきますね……でも西園寺さんも知らないんですか?」
「まあな。叔父貴も全員は知らねえって言ってたからな。まあいてもおかしくはねえな」
誠もアイシャの言葉に頷いた。あのふてぶてしい態度。明らかに人を馬鹿にしたような視線。敬意のかけらも感じられない言葉遣い。
「まあ……実は叔父貴の兄弟のことまで詳しくははアタシは知らねえんだ」
そう言うと興味をなくしたと言うように自分の部屋に戻っていく要。
「隊長の弟か。なんでそんな人物がここに居るんだ?」
不思議そうに誠を見つめるカウラ。誠も少年がなぜアイシャを追っている記者を追い返したのかと言う疑問を解決できずに、とりあえずこのことは後で考えようと心に決めて寮に足を踏み入れる。
「誠ちゃん。足は洗おうね」
アイシャはそう言うと手を差し伸べるカウラを置いて二階へあがる階段に足を向けた。誠は仕方なくサンダルを手に入り口のそばの水道の蛇口に向かって歩き出した。
季節がめぐる中で 30
少年は振り返らずに歩き続けた。そして保安隊の寮から見えない通りまで来た時、彼の姿を見つけたがっちりとした体格のスーツを着込んだアジア系の男が少年に駆け寄ってきた。
「クリタ君!なんでそんな……」
クリタと呼ばれた少年は男を無視して停められていた高級乗用車の隣まで歩いていく。そして思い切りその車のドアを蹴り上げた。
「何を……」
男は驚いたような顔で少年、ジョージ・クリタを見つめた。
「いつまで僕はこんなことをしなきゃいけないのかな?」
ジャケットのポケットに両手を突っ込んだまま不服そうに頬を膨らますクリタ少年。彼は塀に隠れて見えない保安隊の寮の方を向き直った。
「我々には彼らの監視をする義務があるんだからしょうがないじゃないか」
そう言う男の顔には諦めのような表情が浮かんでいた。クリタ少年はそれを見透かしたように笑みを浮かべてジャンバーのポケットからガムを取り出した。
「嵯峨惟基と言うオジサンがなんでこんな奇妙な部隊を立ち上げたのか知りたいって言うなら直接聞けばいいんだよ。なにもこんな回りくどいことしなくても」
クリタ少年の言葉に男は頷いている自分を見つけた。彼もまったく同じ意見だった。
『法術』と言う人間の持つ力の存在。この遼州星系の先住民族に接触した時からアメリカ軍はその力の軍事利用と言う側面に着目し研究を続けていた。
二十年前。法術師としての潜在能力が極めて高いと目されていた嵯峨惟基少佐の身柄を政治取引で遼北から譲り受けると、アメリカ陸軍は徹底的に彼を研究した。その内容については高度な政治的配慮から外事関連の下級武官に過ぎない彼には知らされていなかった。ただ、嵯峨惟基の細胞から作られたクローン人間である少年、ジョージ・クリタが生きていること。そして目の前でガムを膨らませていること。それは否定できない事実だった。
クリタ少年がどのような力を持っているのかは、男にとって先ほどまではどうでもいいことだった。ただ保安隊の面々を目的も知らされずに監視することだけが彼の仕事だった。そんな彼がクリタ少年が見せたその能力の片鱗により、明らかに自分にこの少年に対する恐怖感が生まれているのを感じていた。
少年は寮の前で保安隊の女性士官のプロ野球へのスカウトの情報を得ようと群がる新聞記者達の中にまぎれて立っていた。記者達は学校に向かう少年達と同じように少年にはまったく関心を持たないと言うように寮の玄関に視線を向けていた。
だが、少年が玄関の前に立ったとたん、記者達はまるでまるで催眠術にかかったように少年を見つめた。
全員に注視されたクリタ少年はゆっくりと左手を上げた。
それが合図と言うように記者達は荷物をまとめ始めた。その様子はまるでクリタ少年が記者達に重要な用件を命じたとでも言うようにも見えた。
『こいつは天使かなにか……いやそんな綺麗な代物じゃない。悪魔だ』
男は心の中でそんなことを考えながらクリタ少年を見つめていた。
「おい、帰るぞ」
クリタ少年の言葉にはその年齢に似つかわしくない重みがあった。男は少年の前のドアを開く。そして少年が車に乗り込むのを確認すると助手席に乗り込んで、浅黒い肌の運転席の男の肩を叩いて発信の指示を出した。
「餓鬼のお守りもつらいもんだねえ!」
思わずそう言った男だが、クリタ少年はただにんまりと笑みを浮かべると外の住宅街を歩く小学生達の列に目を向けただけだった。
季節がめぐる中で 31
質素を旨とする西園寺家のすき焼きの割り下には、純米酒でも最低品質の酒が使われるのが慣わしだった。嵯峨惟基も、兄である西園寺基義もそのまま割り下に使った残りの燗酒を使って手酌で飲み始める。
「どうだ……ああ、肉はケチるなよ」
西園寺基義のその言葉を聞くと、嵯峨は筋張った安物の肉をぐらぐらとゆだる鍋に放り込んでいく。殿上会に初めて顔を出した嵯峨はそこで浴びた冷ややかな視線を思い出して皮肉めいた笑みを浮かべながら、鍋を暖める電熱器の出力を上げた。年代モノの電熱器のコイルの赤く熱せられた光がちゃぶ台を赤く染める。
「ああ、そう言えば康子姉さんはどうしたんすか?」
嵯峨の言葉ににんまりと笑う西園寺。
作品名:遼州戦記 保安隊日乗 3 作家名:橋本 直