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遼州戦記 保安隊日乗 3

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 そんな弟、醍醐文隆の言葉が遠くに聞こえるのを佐賀高家は感じていた。殿上嵯峨家と地下佐賀家。かつてその差を越えられると信じていた時代があったことがまるで嘘のように佐賀高家は感じていた。嵯峨惟基。彼は揚げ足を取ろうと狙っている佐賀高家から見ても優秀な領邦領主であり、政治の場における発言力、そして最後の決断においても恐ろしい敵であった。
 弟の冴えない表情を見て、彼は弟とこの敵に回せばただで済むことが考えられない主君の間に険悪な雰囲気が漂っていることにただならぬ恐怖を感じていた。
「文隆、来い」 
 そう言って佐賀高家は弟を引っ張って建物の中に消えた。嵯峨は黙って缶コーヒーの缶に吸い終えたタバコを入れてそのまま道に置いて建物の中に入った。
 ひんやりとした空気が水干を着込んだ嵯峨の体を包む。建物の中庭には枯山水が見える。廊下の角に立っていたSPが嵯峨が室内に入ってきたのを確認すると崩れかけた直立不動の姿勢を正した。
 そのまま嵯峨は一人で金鵜殿の禁殿に向かう廊下を歩き始めた。雑音も無く沈黙した空気の中、こうして禁殿に向かうことは実は嵯峨は一度も経験したことが無かった。
 嵯峨家は本来年に一度のこの金鵄殿での殿上会に参加することが義務付けられている四大公家の当主である。だが、彼は当主になってすぐに軍務で遼南に向かい、そのまま遼北の捕虜となった後は政治取引でアメリカ陸軍に引き渡された。三年後ネバダの砂漠から帰還した嵯峨は殿上会に所在の確認などを届け出ることもせず、双子の娘の姉、嵯峨茜を連れて東和に去ってしまった。
 そんな自分と無縁の晴れ舞台。嵯峨の視線の先にあるのは太刀持ちに副官である渡辺かなめを引き連れて静々と歩いているのは彼の次女、嵯峨楓の凛々しい姿だった。嵯峨は娘のその姿に思い出がよみがえるのを感じていた。
 嵯峨惟基が、まだ西園寺家の部屋住みの時代。兄、基義に無理やり連れ出されて出かけた成金貴族のパーティーで出会ったゲルパルト貴族の娘。そんな嵯峨楓の母、そして嵯峨の最愛の妻であったエリーゼ・フォン・シュトルンベルグの面影が、どこと無くぎこちなく廊下を歩み続ける娘の中に見て取れた。
「柄じゃあねえんだけどな」 
 誰に言うと言うわけでもなく、嵯峨の口から自然と漏れた言葉。そして嵯峨は自分の瞳から涙がこぼれていることに気がついた。
 一瞬、楓の視線が嵯峨に注がれる。うろたえ、自然と顔に赤みが差すのを自覚する嵯峨。それでもすぐに楓は視線をまっすぐと向けて静々と歩き続ける。狂気と暴力が支配したかつての胡州。その政治闘争の見せた武力的側面のテロが嵯峨から妻を奪い、楓から母を奪った。その事実は変えられないことは嵯峨もわかっていた。そしてそんな世界でしか生きられない自分のことも。
 嵯峨はそのまましばらく目頭を抑えたまま、渡辺かなめの後に続いて禁殿へと足を向けた。
 廊下は果てしなく続いた。
 嵯峨もこの建物の内部についてはほとんど知識が無かった。ただ娘を先導する女官についていくだけ。そして自分の目の前で彼から見ても凛々しく見える娘の姿に再び涙が出るのを堪えての歩みは重いものだった。幸い嵯峨の控え室に当たるである茶臼の間に至るまで誰一人として殿上会に出る公卿達とすれ違うことは無かった。
 静かに部屋の前に立っていた女官が正座をしてゆるゆると襖を開いた。部屋に入ろうとした楓が立ち止まったのを見て、嵯峨はそのまま部屋を覗き込んだ。
 五十畳はあろうと言う嵯峨家のためだけにあるはずの『茶臼の間』には先客がいた。
「遅いな、新三郎」 
 そう言って扇子で嵯峨を指していたのは公家姿の礼装を見に纏った兄、西園寺基義だった。
「ご無沙汰しております。伯父上」 
 そう言うとそのまま部屋の中央で座っている伯父の前へと歩み出る楓。嵯峨もその後をついて部屋に入って中の様子をうかがった。
 壁には金箔を豪勢に使った洛中図が描かれ、黒い柱は鈍い漆の輝きを放っている。正直、嵯峨はこのような場所にこれまで足を踏み入れなかった自分の決断が正しかったと思い、皮肉めいた笑みを浮かべながら西園寺基義の正面に座った。
「そこはお前の場所ではないんじゃないか?」 
 そう言う兄の声に気づいたように嵯峨は三歩後ずさった。そして楓は空気を察したように伯父の正面に腰を下ろした。
「この度の家督相続。祝着である」 
 その西園寺基義の一言を聞いた屏風の後ろに控えていた白い直垂の下官が三宝に乗せた杯と酒を運んでくる。その様子を見て、嵯峨はこれもまた家督相続の儀式であると言うことを初めて知った。戦中の嵯峨自身の家督相続はすべて書面だけで行われ、儀式をしようにも嵯峨の身柄は内乱の気配が漂う遼南の地にあってこのような舞台は用意されることも無かった。
 下官に注がれた杯を飲み干す西園寺基義。そして彼は静かにその杯を正面に座る姪の楓に差し出した。楓の手が震えているのが嵯峨の視点からも見て取れた。珍しく娘の成長した姿を親の気持ちで眺めている自分がいることに嵯峨は戸惑う。
 受けた杯を飲み干す楓。
「源朝臣(みなもとのあそん)。三位公爵に叙する」 
「ありがたくお受けいたします」 
 西園寺基義の言葉に拝礼する楓。それを見ながらそのまま三方を持って部屋を出る下官。
 完全に下官達が去ったのを確認するように伸びをした後、基義は突然足を投げ出した。
「ああ、待たせるなよ。つい地がでるところだったじゃねえか!」 
 そう言いつつ手にした扇子を右手にばたばたと仰ぐ基義。嵯峨も兄の間延びした顔を見て足を投げ出す。
「これで新三郎はめでたく胡州の枷から外れたわけだ。しかし……」 
 基義の顔が緩んでいたのは一瞬のことだった。すぐに生臭い政治の世界の話が始まるだろうと嵯峨は覚悟を決めた。
「醍醐のとっつぁんの話なら無駄ですよ」 
 まだ緊張から固まったように座っている楓の肩を叩く嵯峨はそう言い切った。家督相続の儀式を半分終えた安心感から、大きくため息をついた彼女を見て嵯峨は少し自分を取り戻して兄の顔を見つめた。
「そうは言うがな。少しばかり話を聞いてくれないかね」 
 そう言いながら笑みを浮かべる兄を前にして仕方が無いと言うようにタバコを取り出す嵯峨。
「この部屋は禁煙だ」 
 そう言う西園寺基義に悲しげな目を向ける嵯峨。
「こいつは俺の代に作った法律なんだがな。まあ新三郎対策とでも言うべきかな?ヤニで汚れたら胡州の伝統が汚れるだろ?」 
 そう言いながらにやけた顔で見つめる西園寺基義。仕方なく嵯峨はタバコを仕舞う。
「僕は席をはずした方がいいですか?」 
 そう言う楓に嵯峨は首を横に振った。
「お前も一応、嵯峨家の当主だ。それなりの責任は果たす必要があるんじゃないか?」 
 そう言いながら西園寺基義は弟に向かい合って座りなおした。
「醍醐の気持ちも汲んでやってくれよ。あの人もそれなりに考えて今回のバルキスタンへの介入作戦を提案してきたんだからな」 
 兄の言葉に空々しさを感じて嵯峨は思わず薄ら笑いを漏らした。