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 無意識だったが僕は彼女の肩に手を掛けた。えっちゃんは静かに俯いた。化繊の様な艶を持つ髪が耳から眉、そして鼻とあたかも劇場の幕が降りるようにその一つ一つを隠していく。僕はその一つ一つを思い出しながらえっちゃんの肩を強く握った。なぜか震えているように見えたのは気のせいだったのだろう。そう思うと急に恥ずかしくなって、僕は彼女から手を離して机の上のお茶に手を伸ばした。思えば不思議なものだ、彼女は明らかに狂っている。しかし、それでいて僕についての諸々の思い出を除いて仕舞えば彼女は何処と言って悪いところなど無い。なのになぜ・・・。 
 止めよう。それ以上考えるのは。
 僕が再び薬の礼を言おうとして振り向いたとき、もうえっちゃんはいなくなっていた。何時も聞かされている僕の知らない昔の僕の話を聞けなかった事が、少しばかり残念な気がしたが。
 僕は番茶の最後の一口を飲み干すと、昨日の大風のため埃にまみれたサッシを開けて、光を失いつつある僕の花のために新鮮な空気を部屋に取り込んでやろうと立ち上がった。せめてそのぐらいしか僕にできる事はない、そう思っていた。
 ふと植木鉢を見下ろした瞬間、僕は奇妙な光景を見た。植木鉢の中の光が急に赤々と燃え上がって、僕の身体を包んだかと思うと、次の瞬間急に辺りが真っ暗になった。何が起こったのか解らず、僕はその場に座り込んだ。
 
 僕は歩いている。視界は殆ど無い。足元には白い砂があるから砂浜かもしれないが、波の音が聞こえないので海の近くだとも言い切れない。ただ僕は歩いている。何やらさっきまで僕は相当気になる事があったらしいが、もう僕はすっきりとした気分で歩いていけるようになった気がする。何か音が聞こえる。自然音ではない事だけは分かる。何やら金属的な、ものを引っかくような、叩くような、そう言った無駄な音だ。それが一体何であるか、僕はそれを知ろうともしない。ただ僕は満たされようとしている。何に満たされているかすら、僕には分からない。
 足が重くなった。地面が緩くなってきて足を取られているらしい。砂粒が靴に入って足の裏がざらざらとしてきた。僕はそれでもなお歩き続けている。満足感は更に大きくなっている。ここで止めてたまるか、そう思いながら更に歩き続ける。
 霧がだんだん薄くなってきたのが分かって、僕は立ち止まった。視界が開けてくるに従って、何やら黒っぽい影が見え、それがだんだん大きく、はっきりとしてきた。いつの間にか黒い塊は数人の人影となった。そしてその一人一人の顔に浮かんだ不安と嫌悪が僕の満足感を薄めようとしているかのようで僕は目を反らしたくなった。
 なぜだろう、身体が急に凍ったように動かなくなった。僕の目はただ正面の一点を向いたまま瞬きもできずにいる。僕はその一点に目の焦点を当てていった。ただ一人、表情をまったく消去したような顔がそこに浮かんでいた。何処かで見たような女だった。僕は必死に思い出そうとしたが、或一点までくると急に何もかも忘れて出発したところに戻ってしまうようで何一つとして思い出すことはできなかった。
 僕は固まりつつある頬の筋肉を動かして愛想笑いを浮かべようとした。
 人々は僕の表情を見ると口々に何やらささやき合っては僕を軽蔑の視線でみた。そして僕と視線を合わす度に急に顔色を変えて早口で何かささやき合う。そんな事を繰り返していた。
 一人、大柄の老人が振り向くと砂丘の向こうへと歩き出した。それが何かの合図だったのだろう。一人、また一人と僕を置いて砂丘の向こうへと消えていった。
 残ったのは僕とさっきの女だった。僕は相変わらず凍っていた。僕はまた彼女の顔を見た。白い頬に、光る筋を見つけた。
「何で行ってしまったんですか」 
 そういうと女は僕に向かって右足を踏み出した。近づいてくる、近づいてくる、ちかづいてくる、チカヅイテクル、CHIKAZUITEKURU・・・・、

 それからどれくらいたったのだろう。僕が目を開けたその先にはえっちゃんの顔があった。暗くなった部屋の中で僕はベッドに寝せられていた。医者も看護人ももうどこかへ行ってしまったのだろうか、彼女は一人で静かに僕の顔を見入っていた。いつもの発作だろう、はじめのうちはそう思った。これまでも同じ様な事は何度か合った。しかし今度のそれはなんとなく不安だった。頭がガンガンと痛んでくる。意識を失ったときにどこかにぶつけたようで包帯が頭を締め付けて気持ちが悪い。しかし断じてそれが原因ではない。
「あ、気がつきましたか。下で林檎を剥いて貰ってきましたから」 
 林檎を取ろうと彼女が振り向いた瞬間、彼女が少し笑ったように見えた。そしてほぼ同時に僕は不安の原因を突き止めた。
「僕の花、花はどうしたかい」 
 僕は搾り出すようにそう呟いた。
 林檎の乗った皿が僕の布団の上に落ちた。沈黙。突然、えっちゃんの表情が少し寂しそうな表情に変換された。
「どうしたんだい」 
 僕は彼女の細い肩に手を掛けた。しかし、彼女はパッと飛び上がって。部屋の隅に座り込んでしまった。
 僕はそんな彼女をはじめてみた。いや、どこかで見た事があるかも知れない。ただ忘れてしまっただけかも知れない。僕はしかたなく上体を起こした。今、重要なのは花である。そしてゆっくりと祈りをこめながら窓の方へ首を回転させて行った。
 机の上、僕の視線はふらふらと徘徊を続けた。そこには何もなかった。いや、植木鉢だけは明らかにそこにあった。しかしその上から伸び上がっている緑の茎も、鉢の縁からはみ出した葉も、そして真っ赤に輝く花弁もそこにはなかった。僕はすべてを了解したような気がした。それと同時に身体の力が抜け、何もかも嫌になっていくような気がした。
「そうか分かったよ」 
 僕はそう言うと立ち上がろうとした。
 その時、急にえっちゃんが立ち上がって僕の前に立ちふさがった。彼女は泣いていた。僕はそのまま押しのけて立ち上がろうとしたが、白く細い腕は思いのほか力強く僕をその場に固定した。
「私が捨てたの。この植木鉢には何も生えてなかったから・・・」 
 僕は知っていた。いつかこうなるだろうという事ぐらいは。僕は別に怒るわけでも嘆くわけでもなく、立ち上がりかけたそのままの姿勢で彼女を見つめていた。彼女は下を向いて何かに必死に耐えているようにも、また何か違った変化を待っているようにも見えた。確かに変化はあった。彼女はきっと正しいだろう。そして僕は間違っているだろう。
「植木鉢には何も生えてなかったの。だから捨てたの・・・。あなたにもそれを知って貰いたくて・・・、捨てたの」 
 僕は肩の上に乗せられた悦子の手を握った。他にどうしようもなくて笑顔を浮かべると彼女もようやく落ち着いたように僕に向かって昔のような金属製の微笑みを浮かべていた。
「解っているよ。僕は知っているよ。ただなんとなくそう言ってみたかったんだ」 
 僕はゆっくりと立ち上がって、もう一度、昔、僕が生えていた鉢に目をやった。素焼きの粗末な植木鉢の底、こびり付いた砂粒の中に昔ながらの見慣れた世界が何処までも果てしなく広がっていた。
 橋が壊れた今僕はもう戻れない。

作品名: 作家名:橋本 直