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遼州戦記 保安隊日乗

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 誠は左手を見てみた。何度もつぶれたマメで硬くなっていた去年までの誠の手と、今のやわらかい皮膚で覆われた誠の手。それだけの時間が何を誠から奪ったのかよくわかっていた。
 基礎体力自体は士官候補生訓練校の過程で上がっているはずだった。
 だが、ボールを投げる為の筋力は明らかに低下していることがわかってきていた。
『こう言う時は基本に戻ろう』
 誠はそう思うとセットではなく正面に明石を捉えて振りかぶった。
 全身の力を手の先にこめて振り切る。
 ボールはこれまでの二球とはまるで違う切れを見せて明石のミットに飛び込んだ。
「やればできるやんか?もう一丁じゃ!」
 口に笑みを浮かべた明石が素早く誠に返球してミットを構える。
 誠は同じフォームで六球ストレートを投げ続けた。
 忘れていた感覚が次第に全身に蘇る。一球ごとに球速もコントロールも球の切れも上がってきているのが誠にもわかった。
 誠がようやく以前のストレートの感触をつかみかけた時、突然明石が立ち上がった。
「じゃあ今度はとりあえずでええからスライダーじゃ。手はこなれとらんやろうからワンバウンドさせるくらいでこいや」 
 そう言うと明石はミットを右手で叩く。
 久しぶりに投げるスライダー。数十球の投げ込みで肩は十分に温められてはいるが、誠の頭に不安がよぎって自然と野次馬達に目を向ける形になった。
 エメラルドグリーンのポニーテールを風になびかせているカウラは真剣に誠のグラブ捌きを見つめている。隣では渋い顔で要が誠の手の動きを真似ながら隣に立っている明華に説明をしているのが見えた。
 誠は今度こそ自分のボールを投げて見せると意気込んでグラブの中でスライダーの握りを作った。
 明石のミットが右バッターの外角低め一杯に構えられる。
 一度目をつぶって高校一年の春にスライダーを覚えた時の頃を思い出していた。すると誠にはなぜか不安は無くなっていた。
 誠はゆっくりと振りかぶって東都大学野球三部入れ替え戦でウィニングショットに使った時の感触を思い出しながら体をゆっくりとしならせた。
 確かに全て思い通りだった。テイクバックの大きさ、右腕を抱え込むようにして倒れこむ上体、軸足の回転、手首の返り、フォロースルー。
 完璧なスライダーだ。自分でもそう思って球筋を眺めた。
 ストライクからボールになる縦へのスライダー。その切れに思わず明石はファンブルしながら受け止めた。その球の切れ具合に明石は一瞬だけ笑みを浮かべた。
 ギャラリー達はその切れにどっと沸いた。
 しかし、感嘆の瞳で見つめるカウラを見つめた後に明石を見れば、その表情はすでに曇っている。つかつかと誠の元に歩み寄ってくると、静かに一言一言確かめるようにしながらつぶやいた。
「いいスライダーじゃ。確かに決め球でこれが来て打たれるようなことはないじゃろ。せやけど、どう相手を追い込む?どうカウントを稼ぐ?ストレートの切れは落ちとる。速さもワシが見た全盛期のワレの15キロは落ちとるじゃろ。受けてみたがあの軽さじゃあ一発食ろうても、文句は言えへん」 
 そう言うと明石はミットを叩いて再び球を受けるべく距離を取ろうとした。
 誠はカウラと要のほうを見つめた。明石の説得力のある説明を聞いてカウラは心配そうに誠を見つめている。その隣でばつが悪そうに目を逸らした要がタバコをくわえている。明華が何か尋ねているようだが要は無視を決め込んだようだ。
 人垣が崩れた。カウラと要の間にわざと割り込んだアイシャ。サラとパーラは二人に謝りながら小走りに近づいてくるアイシャについてきた。
 アイシャが着ているのは野球のユニフォーム。濃紺の帽子にHの文字。左胸には漢字の縦書きで『保安隊』と書かれている。
「さすが先生!いいじゃん!凄いじゃん!あれは打てないっすよ私は。明石中佐!先生借りますよ!」 
 立て板に水でアイシャが明石の背中に話しかける。
「まだこれからじゃ。のう神前の」
 明石はそう言うとミットを叩きながら誠を見つめる。だが、アイシャは今度は明石に向かって歩き出した。 
「ふうん、中佐殿。野球は9人でやるものですよね?サードとセカンドとライトが抜けると言ってもそんな口利けますか?それとショートのシャムちゃんも……抜けるように仕向けても……」 
 明石の顔が急に青ざめる。
「分かった!好きにせい!」
 そう言うと明石はそのままハンガーの方に歩き始めた。その姿にアイシャ、サラ、パーラの三人娘は取ってつけたような敬礼をした。 
「中佐殿!ご理解感謝します!カウラちゃん!あんたも来なよ!先生の部屋。興味あるでしょ?」 
 名指しされたカウラを要や明華と言ったギャラリーが見つめた。注目されて少しうつむきながらカウラは確かに頷いた。
 隣にいた要はタバコを吐き捨てて、ギャラリー達とともにハンガーに消えていった。
「僕の部屋ですか?」
 誠はなにが起きたのかわからないと言うようにアイシャの顔を見つめた。 
「そう!先生のアトリエ。是非、見学させてください!」 
 アイシャは目を輝かせながら手を合わせて誠の慈悲の言葉を待っている。
 誠は少しばかり照れながらも、断っても次に来るであろう上官命令と言う言葉が想像できるので頷くしかなかった。
「アイシャ!良かったね!私もフィギュア職人の部屋って見てみたかったんだ!」
 そう言ってサラも楽しげに微笑む。 
「はいはい、ようござんした」 
 パーラはめんどくさそうに目を輝かせながら誠を見つめているアイシャとサラに声をかける。そんな三人に遠慮するように少し離れた場所でカウラは立ち止まった。
「カウラちゃんも仲間じゃないの!それじゃあ、レッツゴー」 
 そう言うとアイシャはパーラの四駆が置かれている駐車場へと、四人を引き連れて歩き始めた。
「あの、その格好で向かうんですか?」 
 誠は歩き始めたアイシャに声をかけた。
「そうだけど……何か?」 
 あまりにも当然と言った風に答えるアイシャに誠は頭を掻きながら続いた。
「おいおい!靴忘れてるぞ!」 
 誠のピッチングが終わって散っていく整備班員やブリッジクルーを押しのけて島田が走ってくる。
「すいません!今脱ぎますから」
 そう言いながら誠はスパイクの紐に手をかけた。
「脱ぐですって。どう思われます?グリファンの奥様」 
「全く破廉恥極まりないですわね!クラウゼ様」 
 アイシャとサラが楽しげにささやきあう。座ってスパイクの紐を解いている誠は情けない顔をして二人を見上げた。
「サラ、苛めるなよ。大事な後輩君だぜ?逃げ出したりしたら明石の旦那にどやされるぞ」 
 島田は誠の革靴を誠の手前に置いてサラに声をかけた。
「だって誠ちゃんと言えば脱ぎキャラで有名だし……」 
 誠の手の力が抜けた。明石に吹き込まれていたがこれで東和軍全体に『脱ぐ=誠』の図式が広まっていくことだろう。島田は仕方ないと言うようにそんな誠を見下ろしている。
 とりあえず誠は脱げそうになったスパイクを引っ張った。
「手伝う?それじゃあ足をサラが持って、私は先生を持つわね」 
作品名:遼州戦記 保安隊日乗 作家名:橋本 直