やさしいこもりうた
「あなたは疑問ばかり。理由は自分で見つけなさい」
マリアの声は子守唄のように私の中に温かく流れ込んだ。大人びて澄んだ美しい声だ。その時、私はこの少女のことを知っているかもしれない、そう漠然と思った。
何度も振り返って彼女の存在を確認したい気持ちを押さえ、私は進んだ。今は何時なのだろう。今さらになって会社のことが心配になってきた。携帯電話は圏外を指し、時計もリセットされている。たいした時間は経っていないはずだが、遅刻は免れなかった。上司の冷たい視線を考えるとぞっとしなかったが、一方でこの不思議な出来事の後仕事に行くという行為は考えられなくて、どうにでもなってしまえという思いもあった。
まとまらない思考を弄んでいると、気づけばそこは目的の駅通りだった。私は慌てて時計台を確認する。家を出てから十五分ほどしか経っていなかった。私は夢でも見ていたのだろうか。そんな考えが頭をよぎる。
「振り返らないで」
ふいに彼女の声がどこからか聞こえた気がして、周囲を見回す。銀の髪に藍のワンピースというおよそ浮世離れした姿はどこにも見られず、足早に改札へと向かう社会人や学生ばかりだった。
ああ、しかし私はこのとても短い時間に起きた出来事を決して忘れはしないだろう。それが例え私の白昼夢に過ぎなかったとしても、彼女は確かに存在していた。
私は忘れないだろう。マリアに関わる古い歌は忘れてしまったが、今しがた聞いた、優しい子守唄は――。