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小日向散歩
小日向散歩
novelistID. 16020
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固茹でケーキ

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失敗は許されない。
 限られた予算、限られた時間の中、自分のもてる全ての能力を使って、成果を出さなければならない。
 時計を見る。時刻は午後三時。まだ慌てるような時間じゃない。
 いつもいた隊長の姿を思い出す。こんなことならば、もっと色々と聞いておくべきだった。そんな後悔の念が頭をよぎる。しかし私もまったくの素人というわけではない。簡単ながらも小さな経験を積み重ねてきた私にとって、任務を遂行する上で大切なことはわかっているつもりだ。
 正確さと、適切なスピード、そしてミスをしないこと。
 三つを守るのは簡単なことではない。人は間違いを犯すもの。だから、それらを完璧に守るためには、入念な再確認の作業が必要となる。
 時間はまだあると言っても、ためらっていては前に進めない。私は印刷された任務遂行のための計画書に目を通した。いくつもの名前と数字が並んでいるそれに、ひとつひとつ目を通していく。
 本体は、薄力粉、百二十グラム。砂糖、六十グラム。卵、三個。バター、二十五グラム。牛乳、五十グラム。デコレーションとして、生クリーム、一パック。砂糖 三十五グラム。いちご、たくさん。
 たくさんとはどれほどの数なのか、袋の中からいちごのパックを取り出す。隊長が直に購入してきたものだから、間違いはない……と思いたい。足りなかったら隊長の責任なのだと、そう自分に都合の良い逃げ場を作って、作業に取りかかる。
 石鹸を使用し手に付着した菌のうち約九十九パーセントを死滅させたところで、まずは卵を割ってボールに入れる。が、約三割の確率で殻が混入する私に取って、まさにここが最初の難関だった。一度混入した殻を取り除くのは、そう容易ではない。慎重に箸で殻をつまもうとするが、殻は巧みに箸の間をかい潜る。
 思わずため息を付いた自分の後ろに何かの気配を感じる。振り返ると、テーブルの上に置いてあったいちごのパックが開封されており、口をモグモグと動かす部下の姿が目に入った。既に一個食したらしい。
「それ洗ってないよ!」
 たぶん一個減っても大丈夫だ。洗ってなくてお腹が痛くなっても私は感知しない。そう自分に言い聞かせ、罰として殻を取る作業を代わりにやらせることにした。せいぜい苦しむが良い、などと思いながらミキサーの準備をしていると、すぐに「取れたよ」という声が聞こえた。自分の失敗を部下に押し付けるのは駄目だと思う。
 時刻は三時二十分。まだ大丈夫だ。
 傷ひとつない卵の表面に、ミキサーの先端を当てる。卵よ、そのぷるぷるした表面とも今日でお別れだ。無残にも打ち砕かれる卵黄に一抹の寂しさを感じた。
 砂糖を投入し、お湯で温めながらかき混ぜる。しばらくすると、色が変化しとろりとしてきた。計画書を見る限り、ここまではほぼ計画通りと言って良いようだ。そのことに安心し、ふるいにかけた粉を生地に混ぜていく。
 クリーム色の生地に粉が降りかかっては、混ざっていく。
 良く、少しずつ混ぜてくださいと書いてあることが多いが、一気に混ぜるとどうなるのだろうという知的好奇心が浮かんでくる。一気にまぜるのとは結果が違うのだろうか。
 しかし失敗は許されない。少しずつ入れると書いてあるならば、少しずつ入れなければならない。私の独断と勝手な行動により取り返しの付かない事態になる前に、その好奇心は心の中に仕舞うことにした。
 室温に戻したバターと牛乳を別の容器で混ぜる。数々の試練を乗り越えた私に取って、バターを混ぜることなどたやすい。ここでのポイントはただひとつ。バターがヘロヘロになるくらい室温に戻すことのみ。でないと腕が大変なことになる。できたものを、生地に混ぜながら少しずつ入れる。一気に入れてみる実験は行わない。
 クッキングシートを用意するがここに来て問題が発生した。丸く切らねばならないのだろうか。小学生の時の図工は五だった気がする。部下のプラモデル製作を手伝ったこともあった。手先は器用なはずだと思いハサミを取り出して丸く切るものの、隙間が出来る。計画書にはこのことについての明確な記載がない。
 いつか数学教師が、「黒板にフリーハンドで丸い円を描けないと数学教師は務まらない」と言っていたことを思い出す。私にそんな技術はない。私に問題があるのではなく、クッキングシートが四角いのが問題なのだと思い直して、とりあえずそれなりに頑張った感じでホールにシートをセット。生地を流し込む。
 オーブンを温める。百八十度。でも温度計がないから本当に温まったのかどうかはわからない。とりあえず十分くらい待って、蓋を開ける。中は熱い。たぶん百八十度くらいあるんじゃないかと思う。
 もう後戻りは出来ない。いや、それはこの任務に着手した瞬間から、わかっていたことではないか。二十分に時間をセットし、ホールをオーブン内部にセットする。ほのかなオレンジ色の灯りが、オーブン内部を照らす。
 間違いはなかっただろうか。自分のやってきたことに不安を覚え、計画書を再度読み直す。今更何かの間違いに気づいたところで、それはもう取り返しの付かないことだとはわかっていても、確認せずにはいられなかった。
 大丈夫そうだ。そう、問題はない。あとは結果を待つのみだ。
 生クリームを泡立てる。慣れたからというのもあるだろうが、かき混ぜると増えるのは面白い。ふえるわかめと同じ原理だと思う。いちごを洗って、生クリームの入ったボールの横に置いた。

 終わりを知らせる音がオーブンから鳴る。分厚い鍋掴みを両手に装着し、百八十度で加熱されたオーブン内部へと手を入れる。ホールを掴み、落とさないように最新の注意を払いながら、テーブルの上へそれを置いた。
 本当に失敗はなかったのだろうか。計画書を再度見直す。何もおかしいところはないはずだ。なのに。

──膨らんでない──

 若干膨らんでいるように見えるそれは、なんだか高さが足りないような気がする。試しに指でちょっと押してみる。スポンジと言うからには、スポンジのようにあるべきなのに、それは少し固い感じがした。まるで、何かクッキーのような……。
「ねぇ、出来たの?」
 部下が隣から近づいてきた。
 この行き場のない生クリームといちごたちは、今一体どんな気持ちなのか。生クリームを塗りたいという部下にそれを任せ、私は任務を放棄することにした。
 細心の注意を払い、計画書通りに実行したとしても、それがうまく行くとは限らないのだと自分に言い訳をしながら、私もいちごをひとつ食べることにした。
作品名:固茹でケーキ 作家名:小日向散歩