桜のお話
1.黒猫
最初に小さなお家に住んだのは、独りの女の人でした。
小さなお家の小さな庭に彼女は桜の若木を望み、職人さんに植えてもらいました。
彼女の身長よりも少しだけ大きな桜の木、それが私だったのです。
縁側から小さなお家を覗き込むと、彼女はよく縫い物をしていました。
和裁を得意としている様子でした。
きらびやかな花嫁衣裳や、あでやかな訪問着を、幾枚も仕立てあげていました。
そして彼女も着物がよく似合う女性でした。
けれどもこしらえた着物を着ることは、滅多にありませんでした。
今思えば彼女は、縫い子さんだったのでしょう。
独りぼっちの寂しさにある日彼女は、真っ黒な子猫を貰ってきました。
彼女は子猫をサチと呼んで、子供のように可愛がっていました。
サチは縁側の陽だまりで、丸まっているのが好きな穏やかな猫でした。
風がゆるゆる黒い毛並みを揺らしていくのを、眺めるのが好きでした。
日がかげって寒くなると、しなやかな背中をくうっと伸ばし、サチは欠伸をし部屋に入っていきます。
サチが居なくなると、傾きかけたお日様と、垣根を越えてくる風が、私の慰めになりました。
羊雲・うろこ雲・すじ雲・入道雲と様々な形と速度で雲が、空を横切っていきます。
夕暮れ時、みかん色からばら色に移り変わる空は、いつまで見ていても飽きないものでした。
子猫だったサチはいつしか木登りを覚え、暑い日は枝先の風通しのよい日陰で、まどろみました。
そして春を迎える度に、私は桜を咲かせ、夏ごとに幹を伸ばし、枝を張っていきました。
ビロードのように美しい黒い毛並みを、私はいつも身近に感じていました。
小さなお家の縁側や、お庭の生垣の影、枝のちょうど3つ又になったあたりで、サチをよく見かけました。
サチのくすぐったいあの毛並みを永久に失ったのは、初霜の降りた朝でした。
泣きはらした彼女の目蓋は、赤くはれていました。
真っ白な正絹にくるまれたサチを、彼女は私の根元に泣きながら埋めました。
サチは、幹に枝に葉になって、春には独りぼっちの彼女のために、精一杯咲きました。
そして土の中深く、今も穏やかに、眠っているのでした。