町内会附浄化役
「刺しつらぬけ!」
いつみが叫ぶと、轟音と共に弥無が弾き出された。迫り来る弥無に、怜子は無意識に手をかざす。怜子の立ち込めた弥無は、いつみの弥無とぶつかって、その弥無を拡散させたが、いつみの弥無のいく筋かはそのまま怜子に達した。怜子が左肩を押さえる。血がにじみ出ているのを見て、祥は血の気が引いた。
「おい、いつみ! なにやってるんだ、お前」
「気が散るから黙っていて!」
一喝されても祥は引き下がらなかった。
「お前のやってることは、怜子のやってることと変わりない。お前は自分の力が、どんなに危険なものかも分かってるはずだろ? そんな弥無を汚すような行為を、俺は見過ごすわけにはいかない」
「全て終わったら私が浄化するわ。それで文句ないでしょ」
「そういうことじゃない。お前のやってることは間違ってるって言ってるんだ!」
浦江の神が突然いつみと祥の間に入ってきた。
「いつみ、少しは冷静になれ」
「充分冷静よ」
「しょうがないな」
浦江の神は小さくため息をついて言った。
「祥、俺たちが何を言っても無駄らしい。あいつに言ってもらうか」
祥はきょとんとして聞き返した。
「……あいつ?」
いつみはなにかに気づいたらしく、はっとした表情で叫んだ。
「あのバカ!」
いつみは土手の階段に向かって走り出した。
斎月がふと顔をあげると、階段の上には目にいっぱい涙を溜めたいつみが立っていた。
「このバカ!」
涙声が上から降ってきて、なぜだか斎月は思わず笑ってしまった。
「ごめんごめん」
「……」
口にぎゅっと力を込めて立ち尽くしているいつみを、斎月はこのうえなくいとおしく思った。
「斎月ちゃん……?」
土手を上がってきた斎月を見て、怜子は小さくつぶやいた。苦笑いしている斎月をみているうちに怜子は力が抜けていった。
「ケガしてるんだから、動いちゃダメだって言ったでしょう」
いつみが語気を強めて言った。
「だからごめんって言ってるじゃん」
ちょっとすねたように斎月は言う。
「あなた本当にだいじょうぶなの?」
心配そうに問ういつみと、それを笑顔でかわす斎月を見ているうちに、怜子の心の中に不思議な感情が湧いてきた。
本当なら、あそこに私が立っていてもおかしくはなかったのに。
「斎月、こいつらなんとかしてくれよ」
長い息を吐きながら、祥が言った。
「もう、俺にはどうすることもできん。正面切っての大戦闘だよ。いつみなんかもう、人変わっちゃって、カンペキ悪役だよ、悪役」
斎月はじっといつみの目を見た。
「ち、違うわよ、祥は大げさよ! わたしはただ、弥無が穢れるのを食い止めたかっただけ」
斎月はいつみから視線を外して、今度は怜子を見た。怜子は複雑な気持ちのまま斎月を見つめ返した。
「怜子ちゃん、私が何を言っても言い訳にしかならないと思う。だけど、私はあなたが好きだし、大切にしたいって思ってる、そのことだけは知っておいて」
なにか言い返してやろうと怜子は思った。それなのに、のど元に大きな塊があるみたいに、言葉が出てこない。頭の中が混乱していて、どうすればいいのか分からなかった。
「ねえ、あなた」
さりげなく斎月の肩を支えながら、いつみが言った。
「もう、許してあげなさい。あなたは斎月や、他の連中にひどいことをされたのかもしれないけど、あなただって斎月や連中にだいぶひどいことをしたのよ。それを斎月は恨んですらないんだから。そうね、私もあなたのこと許してあげる」
「……なんでおまえが怜子を許すんだよ。なにもされてないだろ」
「あら、今日は元はといえば私が狙われたのよ。しかも彼女のせいで落ち込んでる斎月にわたしがどれだけ気を使ったか! 恨んで当然だと思うけど」
祥はなんだかめんどくさくて、反論する気にもなれない。
「許してやるってなかなか気分のいいものよ。なんか、相手より一段上に立ったような気になるから」
「……つまりいつみちゃんは今、怜子ちゃんより一段上に立った気分なんだね」
斎月がそう言うといつみは軽くうなずいた。いつみってこういう人だったっけ? なんかいつもと違う。
怜子はじっと立ち尽くしていた。ただ、さっきまでの気分が削がれてしまって、自分の周りの黒い弥無がすこしずつ拡散していっているのも感じていた。集中すればまだ出来るだろうとは思う。でもそういう気分にはなれなかった。
「ほら、斎月。言い訳にしかならなくってもいいから、もう一度ちゃんと謝りなさい」
軽く斎月の肩をたたいて、小さな声でいつみが言った。
「きっかけを作ってやらないと、引くに引けないでしょう?」
そうかもしれない。いつみは結構怜子の気持ちを理解しているらしかった。もしかしたらこの二人は似た者同士なのかもしれない。
斎月は恐る恐る言葉を紡ぎ出す。
「ごめんね、怜子ちゃん。もうあんなこと、二度としないから。怜子ちゃんは私にとって、とっても大切な人だから」
思いは形にしなければ伝わらない。それは時々ものすごく勇気がいるけれど、きっと伝わる。
怜子はその言葉を聞いた瞬間胸を突かれたような感覚を覚えた。なぜだろう、たったそれだけのことで、今まで荒れ狂っていたものが消え去っていくようだった。返事ができない。怜子は、自分の心境の変化が恐ろしくなって、斎月に背を向けて歩き出した。
「え」
怜子の突然の行動に斎月は戸惑った。肩におかれたいつみの手のひらに力がこもる。
「もう大丈夫よ。あの子も素直じゃないわね。追いかけてってあげなさい」
そっとおしだされて、斎月は一歩踏み出す。本当はとても勇気がいる。あの背中を追いかけて声をかけるのは。でも、そこから始まることは、きっととても楽しいことだから。
「怜子ちゃん!!」
こんなに息が上がってしまって、こんなに動悸が走っている。でもきっと大丈夫。
「このまま帰っちゃうの? 今日はお祭りだからさ、も、もしひまなら、夜店に行きませんか?」
怜子はしばらく無言だった。
「ひまといえばひまだけど」
自分でも不器用だなと思う。なにか他にもっと大切な、言うべき言葉があるんじゃないだろうか? これでは何も伝わらない。怜子は唇を噛みしめた。
一瞬斎月には怜子の言ってる意味が分からなかった。
「じゃあ、決まったわね。祥、お金持ってる?」
髪をかきあげながらいつみが言った。
「なんっでオレが払うってことになってんだよ」
「男だから」
「はあ!!?」
斎月はやっと怜子が了解したことを理解した。その途端急に気が抜けて、どっと疲れが出た。
「祥、ワタアメ食べたい…。疲れたから甘いもの食べたい」
「お前まで何言ってんだ!」
木々の間から見える夕焼けの色の空、小さな路地の段ボールの上の猫、長く伸びる斎月ちゃんの影。わたしはこの風景を一生忘れないだろう。許すっていうことは、過去を忘れるってことじゃない。人を切り捨てずに、過去を引きずって今を生きていくってことだ。
夜店の列が、狭い鷺州神社の前の通りを埋め尽くして、闇を光で滲ませている。
「怜子ちゃん、いまでもベビーカステラ好き?」
少し恐る恐る聞いてくる斎月ちゃんに、まだどういう顔をすればいいのか分からない。
「今でも好き」