雨の記憶
翌朝、朝食の食パンをかぶりつく貴人に母が心配そうに言った。昨日の事故……いや、実際には何もなかったのだが、居た筈の学生がいなくて、パニックになりかけたのだ……その事故の事を勤め先で知った母が、もの凄い勢いでかけてきた携帯。貴人の元気な声を聞いて、安心して電話口で泣き出してしまったのだ。
「そんなに何回も事故に合ったりしないよ」
“心配性だなぁ”と笑う。
「俺は、母さんを置いて死んだりしないよ」
そう言って、もう一枚、パクッと口にくわえて制服のブレザーを羽織る。
「いってきまーす!」
「気をつけてね!」
心配そうに声をかける母に手を振ってドアを閉め、アパートの駐輪場へと階段を降りる。肩に学生カバンを掛け、右手の人差し指に自転車の鍵を引っ掛けてクルクル回しながら駐輪場へと到着。
「チャリキー、落とすよ!」
不意に掛けられた声にびっくりして、指から鍵がすっぽ抜けた。
“チャリン♪”
宙を舞った鍵が、声の主の手の中に納まる。
「ナイスキャッチ!」
「ヒ……祐斗!?」
「おはよ!」
「お前、なんで?」
「いつも一緒に行ってるじゃん」
笑いながら、祐斗が鍵を投げて返す。
「……帰らなかったのか?」
「言ったろ、“一緒に帰ろう”って」
茶色の髪が風になびく。
「“連れて帰って来い”って言われたんだよ。“虹の雫”も一緒に」
そう言って、祐斗が貴人の胸を指差した。
「繋ぎ止めてるの、“虹の雫”でしょ?」
虹の橋を越えると、願い事が叶う。人間界での言い伝えだ。雫の光に包まれた瞬間、“貴人”は虹の橋を越えたのだ。
「貴人のお母さんが天寿をまっとうしたら、貴人の望みは叶えられて、ヒースは元に戻るんでしょ?」
「多分……」
母の最期を看取れば、きっと貴人も自分も思い残す事がなくなる。
「だから、それまでオレも一緒にいる!」
「って、何十年も先の話だぞ!」
「あっちの世界じゃ、一瞬だよ」
悪戯気に笑う祐斗に貴人が溜息をついた。
「……バカだな……」
「お互い様!」
今にも降り出しそうな空。
梅雨明けまで、あと一週間の曇り空に二人は自転車のペダルを踏み込むのだった。