赤い瞳で(以下略) ep1-2
6
どこかからか、ピアノの音色が聞こえてくる。懐かしいメロディー。
iPodから削除したくて、でもどうしても削除できずに残してしまった、長い間聞いていなかった、曲。
どこから……。
僕は、顔を上げる。
ピアノの前には、母さんが座っていて。その隣に立って、楽譜をめくっているのは父さんで。そしてその音色に合わせて、雪花は――……幼い雪花は、歌っていて。
僕は、その雪花を。小さな可愛い雪花を、膝の上に乗せて、笑っていた。
そう、皆笑っていた。
とても、幸せだった。
父さんも母さんも、雪花も僕も、この頃は皆。
――……それなのに……。
皆と一緒に笑う僕の頬を、涙が伝う。
幸福すぎて。
失ったモノが余りにも大きかったことに、今、ようやく気がついて。
この光景は、一体いつ、失われてしまったのだろう。もう、この頃には、戻れやしないのだ――永久に。
――お兄ちゃん? 泣いてるの?
僕の膝の上の雪花が、僕を見上げて、歌うのを止める。
――コトミ……、どうしたの? 急に泣いたりなんかして。
――どうしたんだ? どこか痛いのか?
――お兄ちゃん、泣かないで……。
皆、それぞれの手を止めて。作業を中断して。僕の周りに、集まってくる。
大丈夫、ただ、幸せすぎただけ。
失われてしまった日常と幸福に、少し酔っただけなんだ。
だから、――大丈夫。
――お兄ちゃん、泣かないで。
――コトミ。
――コトミ……。
父さんが、頭を撫でてくれた。母さんが、抱きしめてくれた。雪花が、僕の涙を拭ってくれた。
あの頃の僕は、なんて幸福だったのだろう。
当たり前を当たり前として、享受していた。
幸福は、いつでも決して、無くなったりなどしないと。
ああ、そうか。
そうだったのか。
僕の心は、欠けていたわけじゃないんだ。ただ、麻痺していただけ。幸福がいつのまにか消えていたことに、必死で気付かないフリをして、それで自分の心を封じた気になっていただけ。
本当はずっと、痛み続けていたのに。
本当は、思いっきり泣きたかったのに。
本当は、悲しくて悲しくて、仕方なかったのに。
雪花のためと言いながら、自分に嘘をつき続けて。
心を開く方法すら忘れるほど、長い間、ずっと。
でも、そうだ。
もう――……
大丈夫だ。
大丈夫だよ、雪花。
――本当?
幼い雪花は、心配そうな黒い瞳で、僕を覗き込む。
うん、本当。お兄ちゃんは、もう、大丈夫だよ。
――うんっ。
嬉しそうに。雪花は笑って、僕に抱きつく。
そうだ、今なら。今からなら。
やり直せないこともあるけれど。やり残してきたことも、たくさんあるけれど。
でも、今からでも、できることはたくさんある。
償いなんて、大層なモノじゃないけれど。
雪花のために、そして僕自身のために――……
生きていこう。
そうして、僕は眼を開いた。隣には雪花がいて、僕の手をきゅっと握っていた。
「お兄ちゃん……!!」
ああ、あれは夢、だったのか。それもそうだよな。
だったら、……ここは、現実。
僕は、生きている。
「……ただいま、雪花」
「…………!!」
雪花は、涙でぐしゃぐしゃの顔を僕の胸に押しつけて、笑った。
「おかえりなさい、お兄ちゃん」
作品名:赤い瞳で(以下略) ep1-2 作家名:tei